江戸時代の藩の飛領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 14:42 UTC 版)
八戸藩志和寛文4年(1664年)、南部盛岡藩3代藩主・南部重直の死後、盛岡藩と八戸藩に分割された際、後の上平沢、稲藤、上土舘、下土舘、北片寄、中片寄、南片寄の7ヶ村が八戸藩の飛び地となった。八戸藩が明治4年(1871年)に廃藩した後の志和村。 会津藩蝦夷地のうち根室国、北見国の各一部、河内国、和泉国の各一部を飛領としていた。 加賀藩越中国新川郡の大部分 - 富山藩が加賀藩から分藩されたことに伴い、飛領となった。 近江国弘川村 - 藩祖前田利家の妻である芳春院(まつ)の死後、芳春院の化粧料(婦女に対して生活補助として与えられた領地(石高))だった弘川を飛領として加えた。 富山藩加賀藩からの分藩から1659年の領地交換まで、以下の飛領を有していた。越中国新川郡の一部(黒部川西岸) 加賀国能美郡の一部 大聖寺藩加賀藩からの分藩から1660年の領地交換まで、以下の飛領を有していた。越中国新川郡の一部 対馬府中藩本領の対馬が地理的に稲作・耕作が困難な土地であった為、以下の飛領を有していた。肥前国基肄郡、養父郡、松浦郡の各一部 筑前国怡土郡の一部 豊前国宇佐郡、下毛郡の各一部 下野国都賀郡、安蘇郡の各一部
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