江戸時代の祭礼
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「白山神社 (仙台市)」の記事における「江戸時代の祭礼」の解説
江戸時代に白山神社は3月3日が祭礼日で、この日にあわせて遠くから国分氏の旧臣が集まり、それぞれ定められた勤めを果たした。祭礼の進行は国分寺の僧が取り仕切った。 神事の中心は流鏑馬であった。江戸時代中期に書かれた『奥羽観蹟聞老志』によれば、騎射の士は森田氏、北目氏、鶴谷氏、的司(まとづかさ)は堀江氏で、いずれも国分氏の旧臣である。彼らは2月25日から精進をはじめ、東溟浜で海に入って身を清めてから、陸奥国分寺の馬場本坊に入って斎戒につとめた。 的板取は下愛子村から2人が出て代々勤めた。『安永風土記書出』によれば、下愛子村の百姓五郎左衛門と与之助が、白山御神事の御的板取を代々勤める役柄で、やはり毎年2月25日から精進に入り、3月3日朝、帯刀で陸奥国分寺の学頭坊に入り、翌4日まで勤めた。また、長喜城村の矢取屋敷に住む百姓の権兵衛と、荒井村の矢取屋敷に住む百姓の半三郎が、先祖代々矢取を務めていた。彼らも3日当日帯刀で神事に奉仕した。 神事のはじめには国分氏旧臣の高橋氏が祝詞をよみ、堀江氏が的司として金扇をあげて合図した。すると3騎が出て次々と的を射た。的ははじめ鹿の首だったが、後に檜の板になった。 流鏑馬が終わると、使い終わった的を仙台南郊の長町(ながまち)と東郊の原町(はらのまち)の若者が集団で奪いあう「的ばやい」という行事が行われた。的をとったほうが豊作になると言われた。 この取り合いの後、僧と神人は国分寺薬師堂に移り、僧は鎧を着て白刃を抜いて太平楽を舞い、神人は仮面を付けて竜王(陵王)、納蘇里(納曽利)などを舞った。 祭には多くの人出があり、見世物や物売りの出店が連なって大変な賑わいであったという。伊達忠宗をはじめとする藩主も時折り訪れた。藩主には寺社の保護・参詣が半ば義務的な行事としてあり、儀式への参加、関係者の饗応、献上物などをともなったが、白山神社の祭礼に関してはそうしたことがなく、純粋に見物に来たようである。仙台城下は原則として芝居や相撲の興行が禁止されていたが、6つの御神事場だけは期間限定で許されており、白山神社がその1つであった。 流鏑馬は昭和40年頃(1960年代半ば)まで続いたが、今では行われていない。
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