江戸時代の祭礼とは? わかりやすく解説

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江戸時代の祭礼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 08:46 UTC 版)

白山神社 (仙台市)」の記事における「江戸時代の祭礼」の解説

江戸時代白山神社3月3日祭礼日で、この日にあわせて遠くから国分氏旧臣集まりそれぞれ定められ勤め果たした祭礼の進行国分寺の僧が取り仕切った神事中心流鏑馬であった江戸時代中期書かれた『奥羽観蹟聞老志』によれば騎射の士は森田氏、北目氏、鶴谷氏、的司(まとづかさ)は堀江氏で、いずれも国分氏旧臣である。彼らは2月25日から精進をはじめ、東溟浜で海に入って身を清めてから、陸奥国分寺馬場本坊に入って斎戒つとめた。 的板取下愛子から2人出て代々勤めた。『安永風土記書出によれば下愛子村の百姓五郎左衛門与之助が、白山御神事の御的板取代々勤め役柄で、やはり毎年2月25日から精進入り3月3日朝、帯刀陸奥国分寺学頭坊に入り、翌4日まで勤めたまた、長喜城の矢取屋敷に住む百姓権兵衛と、荒井村の矢取屋敷に住む百姓の半三郎が、先祖代々矢取を務めていた。彼らも3日当日帯刀神事奉仕した神事はじめに国分氏旧臣高橋氏祝詞をよみ、堀江氏が的司として金扇をあげて合図した。すると3騎が出て次々と的を射た。的ははじめ鹿の首だったが、後にの板になった流鏑馬が終わると、使い終わった的を仙台南郊長町(ながまち)と東郊原町(はらのまち)の若者集団奪いあう「的ばやい」という行事が行われた。的をとったほうが豊作になると言われた。 この取り合いの後、僧と神人国分寺薬師堂移り、僧は鎧を着て白刃抜いて太平楽舞い神人仮面付けて竜王陵王)、納里(納曽利)などを舞った。 祭には多く人出があり、見世物物売り出店連なって大変な賑わいであったという。伊達忠宗はじめとする藩主時折訪れた藩主には寺社保護参詣半ば義務的な行事としてあり、儀式への参加関係者饗応献上物などをともなったが、白山神社祭礼に関してはそうしたことがなく、純粋に見物に来たようである。仙台城下は原則として芝居相撲興行禁止されていたが、6つ御神事場だけは期間限定許されており、白山神社その1であった流鏑馬昭和40年頃(1960年代半ば)まで続いたが、今では行われていない。

※この「江戸時代の祭礼」の解説は、「白山神社 (仙台市)」の解説の一部です。
「江戸時代の祭礼」を含む「白山神社 (仙台市)」の記事については、「白山神社 (仙台市)」の概要を参照ください。

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