江戸時代の街並み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 07:20 UTC 版)
「大町 (仙台市)」の記事における「江戸時代の街並み」の解説
町屋敷の軒数は、史料によって異なるが、大町一二丁目は約60軒、三四五丁目は約90軒であった。人口は、安永元年(1772年)に2441人、嘉永5年(1852年)に2289人(うち一二丁目は978人、三四五丁目は1311人)という数値がある。人口で24町の約10パーセントを占め、屋敷や蔵の充実ぶりからも、江戸時代の大町は名実ともに仙台の町人町の頂点にあった。 大町を含む一帯は、大水とはほぼ無縁であったが、しばしば大火に見舞われたので、町人屋敷も焼失と再建を繰り返した。江戸時代の絵図からの推測では、瓦葺きの家は初期にはほとんどなく、18世紀半ば以降も芭蕉の辻を中心にした中心街だけが瓦葺きで建てられた。大町の富強はこうした建物の姿にも現れた。大町に与えられた商業特権は、目抜き通りに賑わいがなければ城下の飾りを欠く、という都市政策的な目的で与えられたものであった。 神明宮という神社があったが、正徳2年(1712年)に榴岡に移った。 江戸時代の仙台の町が総力を挙げる最大の祭りは、1655年(明暦5年)に始まる仙台祭であった。仙台東照宮の祭礼である。祭の目玉は各町が趣向を凝らして制作した山鉾で、大町は各丁目ごとに、またはいくつかが連合して、あるいはそれに加えて一人の商人が単独で、山鉾を出した。
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