江戸時代の豊臣氏とは? わかりやすく解説

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江戸時代の豊臣氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 00:43 UTC 版)

豊臣氏」の記事における「江戸時代の豊臣氏」の解説

慶長20年1615年7月大坂の陣大坂城羽柴宗家豊臣家)が滅亡すると、それまで羽柴名字豊臣の氏の公称続けていた大名たちは一斉にその使用をやめている。たとえば福島正則福島家では、羽柴から福島名字改めとともに旧姓平氏ではなく新たに藤原氏改めている。これは特に幕府から禁止されということではなく宗家滅亡ともなって自然消滅みなされものらしい。 ただ、秀吉正妻高台院兄弟たちおよびその子孫たちは、羽柴から木下名字改めたものの、豊臣の氏はそのまま名乗り続けている。『寛政重修諸家譜』には、豊臣本姓とする大名家として、備中足守25,000石の木下家豊後日出25,000石の木下家の2軒、同じく旗本として、足守木下家分家1軒と日出木下家分家2軒を掲載するこのうち木下利次は、高台院養子となり、豊臣氏羽柴家)の祭祀継承することが許されている。 また、朝廷地下官人のうち、かつての滝口武者再興した滝口36軒があったが、そのうちの1軒である木下家本姓豊臣氏称していた。この家は、明和5年1768年)に木下秀峯滝口に補せられたのを創始とする。秀峯当初「しげみね」と名乗っていたが、安永7年1778年)に「ひでみね」と改めたあきらかに秀吉」を意識した諱であるが、秀峯前歴系譜関係などは不明である。秀峯-秀時-秀敬-秀邦-秀幹-秀有と相承して幕末に至る。衛府の志(さかん)から尉(じょう)を経て諸国国司おおよそ介まで)となるのを極官とした。極位正六位下であったその他の地下官人家の中にも、豊臣姓を名乗る家が数軒確認される参考 : 地下家の一覧)。 その後明治時代に「氏」制度廃止されるまで、新たな氏は創設されることはなかった。華族宗族制では、足守日出の両木下家が「豊臣朝臣肥後守俊定裔」として第75類に分類されている。豊臣朝臣皇別神別外別いずれのカテゴリーにも含まれておらず、同様の扱い受けたのは琉球国王であった尚家だけであった

※この「江戸時代の豊臣氏」の解説は、「豊臣氏」の解説の一部です。
「江戸時代の豊臣氏」を含む「豊臣氏」の記事については、「豊臣氏」の概要を参照ください。

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