内部官職とは? わかりやすく解説

内部官職

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 03:46 UTC 版)

近衛府」の記事における「内部官職」の解説

大将 四等官長官カミ)に相当する権官はない。左右に各1名(左近衛大将右近衛大将)。それぞれ左大将」・「右大将」と略す。羽林大将軍親衛大将軍虎牙大将軍幕府幕下といった唐名で呼ぶこともある。 天平神護元年765年2月3日設置当初正三位官位相当だったが、延暦12年793年)に従四位上官位相当降格した延暦18年799年4月27日従三位当に昇叙定着した古く参議上の兼務であったが、平安時代中期以後には左大臣以下権大納言上の兼任が定制となり、大納言に勝る重職と見られるようになった(ただし、摂関家嫡男などが権中納言大将兼任する例もよく見られた)。馬寮御監兼任することもある。 近衛大将辞令宣旨)の例:「日光東照宮文書從二位權大納言源朝臣家康 從二位權大納言源朝臣敦通宣 奉 勅件人宜令兼任左近衞大將天正十五十二月廿八日 掃部頭大外記造酒正中原朝臣師廉奉 (訓読文従二位権大納言源朝臣家康 従二位権大納言源朝臣敦通、宣る 勅を奉るに、件の人、宜し左近衛大将兼任せしむべし者 天正15年1587年12月28日 掃部頭大外記造酒正中原朝臣師廉、奉る従二位権大納言源朝臣家康とは徳川家康従二位権大納言源朝臣敦通とは久我敦通掃部頭大外記造酒正中原朝臣師廉とは押小路師廉のことである。 中将 四等官次官スケ)に相当する少将も「スケ」であるので「おお(大)いスケ」と呼ばれた左右に各1 ~ 4名。それぞれ左中将」・「右中将」と略す。親衛中郎将親衛将軍羽林将軍といった唐名のほか、次の少将あわせて三笠山」・「次将」という別名がある天平神護元年765年2月3日設置以来従四位下の官位相当当初は1名だったが、天長年間には権官が1名置かれるようになり、10世紀末までには正官2名・権官1名の計3人となり11世紀後半には左右各4名とされた。12世紀後半になるとさらに人数増加するようになり、後白河院期には各6 ~ 7名在籍する例も見られるうになる。後には正員置かれず、権官のみとなる。中将蔵人頭補されると「頭中将」と呼ばれ近衛中将兼任する参議は「宰相中将」と呼ばれる中納言権中納言中将兼任している場合は「中納言中将」という。非参議四位中将三位叙され中将如元」とされた者は「三位中将」と呼ばれ三位中将非参議のまま二位叙され場合には「二位中将」と呼ばれる摂関家嫡男などが五位のまま中将になる例もあり、「五位中将」と呼ばれた少将 四等官次官スケ)に相当するが、中将の「おお(大)いスケ」に対し「すな(少)いスケ」と呼ばれた左右に各2 ~ 4名。それぞれ左少将」・「右少将」と略す。羽林郎将親衛郎将、羽林中郎将亜将虎賁中郎将といった唐名がある。 天平神護元年765年2月3日設置以来正五位下官位相当当初は1名だったが後に増員され天応元年781年6月1日員外近衛少将廃止された際に定員2名となる。その後9世紀半ばには権官設置され正官2名・権官1名の計3人となり11世紀初めに左右各4人在籍する例が見られるようになった12世紀後半になるとさらに人数増加するようになり、後白河院期には各7 ~ 8名在籍する例も見られるうになる。後には正員置かれず、権官のみとなる。中将とほぼ同じ職掌五位蔵人務め少将は「蔵人少将」と呼ばれた五位少将四位叙された際に少将止めず少将如元」とされた場合など、四位位階でこの官を務める者は「四位少将」と呼ばれた。例は少ないが三位叙されても少将のままでいる場合は「三位少将」と称した平安時代では藤原道長藤原頼通藤原忠家藤原基実の4名が三位少将経験している)。二位位階でこの官に就く場合もあったとされるが、平安時代においてはその例は皆無であり、鎌倉時代正三位右少将藤原教実承久3年1221年1月5日従二位叙されたのが初例である。 近衛中将少将はともに四等官次官にあたるために、近衛次将(このえのじしょう)とも称した近衛次将天皇親衛隊幹部であり、公卿への昇進コース侍従兵衛佐近衛少将近衛中将少弁中弁場合も) → 参議昇進典型的)に位置したため、上流貴族子弟殿上人多く任じられた。9世紀半ばまでは叙爵受けて五位となった近衛将監少将昇進する事例もあったが、以降次将以上と将監以下に明確な身分差が確立し将監叙爵受けた後に受領転じるうになる10世紀末から11世紀には藤原氏忠平流・宇多源氏醍醐源氏村上源氏など「公達とされる家格の上貴族の子弟でほぼ占められた。鳥羽院政期以降には藤原氏顕季流・同通憲(信西)流・桓武平氏忠盛流など本来は「諸大夫」の家格である院近臣家出身者からも近衛次将任じられる者が現れるようになった承徳2年1098年)に左右近衛次将定員合計各8名とされたが、院政期後半(特に後白河院政期)には実際に在籍する人数増大し安元元年1175年)には次将合計左右合わせて28人の例が出現する堂上家出身者公卿となる者は侍従兵衛佐近衛次将歴任する例が多く摂家清華家大臣家羽林家家格の者が近衛次将経て公卿に昇った。 ここまで幹部職員で、これ以下を近衛舎人このえのとねり)と呼ぶ。 将監しょうげん左右各1名 ~ 10名。四等官判官ジョウ)に相当する参軍親衛軍長吏、親衛校尉録事といった唐名がある。 天平神護元年765年2月3日近衛府設置とともに従六位上官位相当現場指揮官護衛警護体制組み立てる。近衛将監六位蔵人式部丞民部丞外記・史・衛門尉などと同様に正月叙位叙爵があり、毎年1名ずつ従五位下叙された(巡爵)。五位でこの官職に就くと「左近大夫さこんのたいふ将監」・「右近大夫うこんのたいふ将監」、略して左近大夫」・「右近大夫」と称された。 将曹しょうそう左右各4名 ~ 20名。四等官主典サカン)に相当する天平神護元年765年2月3日近衛府設置とともに従七位下官位相当現場指揮官将監指揮のもと、配下人数直接指揮する。 府生ふしょう左右各6名。 番長ばんちょう:つがいのおさ) 左右各6名。行幸高官外出時の警護の際、騎乗許可され前駆する。 近衛300名。 その他に役職有り

※この「内部官職」の解説は、「近衛府」の解説の一部です。
「内部官職」を含む「近衛府」の記事については、「近衛府」の概要を参照ください。


内部官職

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:19 UTC 版)

検非違使」の記事における「内部官職」の解説

別当 四等官長官カミ)に相当する唐名大理卿定員は1名で、現任の正あるいは権中納言または参議にして、左あるいは右衛門督、または左あるいは右兵衛督兼任者のいずれかより補任される慣例である。参議四位検非違使別当兼帯した例もある。一方大納言上の議政官兼帯したのは、藤原忠平911年延喜11年)に大納言転任するが、検非違使別当そのまま兼帯した例のみで他の例はなく、五位以下から兼帯した例もない。なお、検非違使別当検非違使統轄する最高責任者ではあるが、自身検非違使ではない。また、検非違使別当兼帯した権中納言従三位兼行左衛門督柳原量光1486年文明18年)に辞職以降1655年明暦元年)10月26日参議従三位左衛門督油小路隆貞兼帯するまで兼帯不在また、途絶え1744年延享元年8月29日正三位権中納言左衛門督柳原光綱兼帯以降明治維新まで後任者継続するちなみに史料における検非違使別当兼帯初出は、834年承和元年1月27日参議左大弁従四位上兼行左近衛中将春宮大夫武蔵守文室秋津である。(公卿補任) 佐 四等官次官スケ)に相当する唐名廷尉定員は2名で、左あるいは右衛門権佐兼務していた。なお、原則として検非違使務めるのは権官である左あるいは右衛門権佐であり、正官である左あるいは右衛門佐検非違使務めことはない。別当兼務多かったので実質的に検非違使庁責任者であった蔵人検非違使佐を兼ねたり蔵人弁官検非違使佐を兼ね三事兼帯もいた。ちなみに史料における検非違使兼帯初出は、824年天長元年)、左衛門権佐従五位上笠仲守従五位下右衛門権佐藤原永雄である。(帝王編年記大尉 四等官判官ジョウ)に相当し定員は4名で、衛門大尉兼務していた。明法家である坂上氏及び中原氏世襲するようになった少尉 四等官判官ジョウ)に相当し定員不定で、衛門尉兼務していた。10世紀後半頃から源氏平氏などの武士がなることが多かった源義経九郎判官と呼ぶのもこの官職に就いていたからである。 大志、少志 四等官主典サカン)に相当する定員不定で、若年明法家がなることが多かった府生 他の官司における史生相当する下級書記官追捕裁判参加する定員変動したが、おおよそ2名から4名。 看督長かどのおさ罪人収監する監獄管理するであったが、後に罪人捕縛する役になる。赤狩衣、白衣布袴白杖を持つ異形いでたち職務当たった案主あんじゅ検非違使庁事務役人で、当初1名だったが後に人数増えた火長 衛門府衛士から選抜された者で、ここから看督長案主選ばれた。 放免罪人で、下部とも呼び、罪を許され検非違使庁で働くものである実際に犯罪者探索し捕縛拷問担当した

※この「内部官職」の解説は、「検非違使」の解説の一部です。
「内部官職」を含む「検非違使」の記事については、「検非違使」の概要を参照ください。


内部官職

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 13:37 UTC 版)

兵衛府」の記事における「内部官職」の解説

左右に各1名。四等官のうちの長官カミ」に相当。権官はない。令制では従五位上当の官職であったが、延暦18年799年4月27日従四位下相当に改訂された。大宝律令においては「率」(読み方は同じ)。中納言参議位階としては二位三位))との兼官多く、また左右衛門督加えた計4名のうちの1人検非違使別当兼ねるのが慣例であったとは言え実態としてはかなり広範な任用例が見られ兼官としては大弁中弁、あるいは近衛中将との兼務例が見られる他、五位からの抜擢の例もあり、非参議散位である二・三クラス公卿に職を宛がうための官職でもあった。後に足利尊氏直義兄弟新田義貞など建武の新政名将達が左兵衛督任じられたため、武士にとって名誉ある官職みなされた。このため室町時代では主に代々鎌倉公方斯波氏当主任官した江戸時代の武家官位では、御家門たる明石松平家当主左兵衛督に、尾張徳川家世子右兵衛督任官された。また、鎌倉公方末裔喜連川家当主は、室町時代からの慣行により無位無官ながら左兵衛督名乗ることが江戸時代通じて認められていた。唐名武衛大将軍佐 左右に各1名。四等官のうちの次官スケ」に相当するが、権官あり(佐)。令制では正六位下当の官職であったが、延暦18年4月27日従五位上当に改訂された。大宝律令においては「翼」(読み方は同じ)。少納言との兼務が多い他、馬頭から近衛中将転じる際に空席ない場合において、暫くの間この職を拝命して中将空席を待つ事もあった。平安時代兵衛佐兵衛権佐公卿への昇進コース典型的なコースは、侍従兵衛佐近衛少将近衛中将参議少将から少弁中弁転じて弁官昇進して参議に至るコースもあり、兵衛佐から少弁転じて弁官昇進して参議昇進する者もあった)上のであったため、上流貴族の子弟が多く任じられた。六波羅政権樹立する平清盛最初に任じられ官職左兵衛佐である。この待遇当時武士の子弟官位としては破格のもの(公卿の子弟など上流貴族準ずる待遇)であり、当時権門貴族であった藤原宗忠その日記・中右記において「人耳目を驚かすか、言ふ足らず」と驚愕している。またこの官職でもっとも著名なのは右兵衛権佐任じられ源頼朝である。平治の乱の際にこの職に任じられ頼朝は僅か十五日で解官され、20年に及ぶ流人生活を経て平家倒し建久元年1190年)に権大納言任じられるまでの30年間「前右兵衛権佐であったこのため頼朝仕えた御家人達は頼朝敬意払って佐殿(すけどの)」と呼んだのである室町時代に入ると左兵衛佐官職斯波氏当主代々任じられるようになったため、同家武衛家と称した平安時代兵衛佐五位の者が任じられ四位叙されるとこの官を止めるのが原則であったが、長承四年(1135年)に左兵衛佐平清盛従四位下に叙された際「兵衛佐如元」とされて四位兵衛佐の例が稀に見られるようになった唐名武衛将軍。 尉 正七位上当の大尉」と従七位上当の少尉」があり、四等官のうちの判官ジョウ」に相当。当初はともに左右各1名であった延暦18年4月27日少尉左右各2名制となり、久安4年1148年)には大尉・少尉ともに一気左右20名に増加された。更に保元3年1158年)には更に25名に増員されている。唐名武衛校尉。 志 従八位上当の大志」と従八位下当の「少志」があり、四等官のうちの主典サカン」に相当。左右ともされぞれ各1名。延暦18年4月27日に少志が左右各2名制となり、更に大志正八位上相当、少志は従八位上当に改められたという。 医師 左右各1名。従八位上相当。養老5年721年設置番長 左右各4名。 兵衛 左右400名。六位以下八位上の嫡子21歳上の者及び諸国郡司の子弟で弓馬巧みな者を国司推薦して選抜した大同3年808年)には左右300名に、更に寛平3年891年)に左右200名に削減したその他に直丁左右各2名) 廝庁(左右各4名) 府生兵部省からの出向人数不詳案主左右各1名) 府掌(左右各1名) 吉上人数不詳使部左右30名) 駕輿丁左右50名) などの役職があったという。

※この「内部官職」の解説は、「兵衛府」の解説の一部です。
「内部官職」を含む「兵衛府」の記事については、「兵衛府」の概要を参照ください。


内部官職

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 05:06 UTC 版)

勘解由使」の記事における「内部官職」の解説

長官正五位下相当)…1名 参議左右大弁といった高官充てられることも多かった次官従五位下相当)…2名(黒田官兵衛など) 判官従六位下相当)…3名 主典(従七位下相当)…3名 史生 書生 使掌 使部

※この「内部官職」の解説は、「勘解由使」の解説の一部です。
「内部官職」を含む「勘解由使」の記事については、「勘解由使」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「内部官職」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「内部官職」の関連用語

内部官職のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



内部官職のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの近衛府 (改訂履歴)、検非違使 (改訂履歴)、兵衛府 (改訂履歴)、勘解由使 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS