久我敦通とは? わかりやすく解説

久我敦通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/22 02:08 UTC 版)

 
久我敦通
『古文書纂』より
時代 室町時代後期-安土桃山時代
生誕 永禄8年8月21日1565年9月15日
死没 寛永元年11月22日1625年1月1日
改名 吉通(初名)→季通敦通
別名 橘(一字名)
諡号 円徳院
官位 正二位権大納言
主君 正親町天皇後陽成天皇
氏族 久我家
父母 父:久我通堅、母:佐々木氏
兄弟 敦通下津俸庵俊子
久我晴通の娘
通世通前通式
テンプレートを表示

久我 敦通(こが あつみち)は、室町時代後期から安土桃山時代公卿。主に正親町天皇(106代)・後陽成天皇(107代)の二代にわたり朝廷に仕え、官位正二位権大納言まで昇った。父は久我通堅。母は佐々木氏。初名は吉通季通。一字名は橘。号は円徳院。久我家21代。

生涯

永禄9年(1566年)に叙爵。

永禄11年(1568年)に父が目々典侍との密通の風聞がたったことで正親町天皇勅勘を被り、京都から追放され、元亀4年(1573年)には祖父の晴通将軍足利義昭の京都追放に同行してしまう。

その後、天正3年(1575年)3月に祖父が、翌4月には父が客死してしまうが、織田信長の配慮で家督継承が認められて、11月には信長から所領の安堵を受けた[1]

以降累進し、天正6年(1578年)に従三位に達して公卿に列した。

天正10年(1582年)に権大納言、天正15年(1587年)に従二位となる。

文禄4年(1595年)より武家伝奏となり、朝廷と豊臣氏との取り次ぎに活躍。豊臣家からも信頼を受けて、しばしば加増を受けている。

慶長4年(1599年)、長橋局との密通の風聞がたったことで、子の通世とともに後陽成天皇勅勘を被り、京都から追放されている。

系譜

脚注

  1. ^ 金子拓「久我晴通の生涯と室町幕府」(初出:『東京大学史料編纂所附属画像史料解析センター通信』66(2014年)/所収:金子『織田信長権力論』(吉川弘文館、2015年) ISBN 978-4-642-02925-4)2015年、P72-73.

関連項目





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「久我敦通」の関連用語

久我敦通のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



久我敦通のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの久我敦通 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS