猪熊事件と譲位問題
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慶長8年(1603年)、家康を征夷大将軍に任じ、江戸幕府が開かれた。朝廷権威の抑制をはかる幕府は武家伝奏を設けて更なる監視態勢を整えた。慶長10年(1605年)には譲位の意向を示し、家康も了承したため仙洞御所の造営が開始された。 後陽成の治世では朝廷内の風紀が乱れ、慶長4年には久我敦通と勾当内侍の醜聞がたち、後陽成は禁裏内での掟を定めている。掟は慶長8年に強化されたが、それでも禁裏内の風紀粛正は達成されなかった。慶長14年(1609年)6月に宮中女官の密通事件が相次いで発覚し、首謀者とされた猪熊教利と兼康頼継は逃亡した(猪熊事件)。これに激怒した天皇は被疑者らの極刑を強硬に主張し、摂家衆もこれに同意を与えてしまった。この命令は所司代板倉勝重に伝えられたものの、勝重は官女の取り調べを行うなど慎重に動き、9月23日には家康の意向が朝廷に伝えられた。天皇は自ら処罰することを諦め、家康の裁断に任せると回答した。これにより勝重の裁定で猪熊・兼康が処刑されたものの、公家衆5人と女官5人・女嬬2人を蝦夷や伊豆新島などへとそれぞれ配流するにとどめた。天皇はこの処分を手ぬるいものであり幕府の意向に屈したと考えて不満を抱き、この一件により天皇は女院とも意志の隔たりを生んで側近の公家衆や生母、皇后とも逢うことが少なくなって孤独の中で暮らすようになり、12月には譲位の意向を家康に伝達した。政仁親王への譲位は家康の了解を得、慶長16年(1611年)3月20日前後に行われることが内定した。 ところが閏2月17日になって、家康が五女市姫の死去を理由に譲位延期を要請してきた。天皇は激怒したが従わざるを得なかった。家康は譲位とともに行われる政仁親王の元服の期日などでも介入し、天皇の不興を買った。朝幕関係の悪化を憂いた摂家衆が天皇を必死に説得し、天皇も「なにとなりともにて候」と抵抗を諦めた。譲位は3月27日に執り行われ、後陽成には2000石の仙洞御料が進献されたが、多くの子女を抱える後陽成にとってはこの額は十分と言えるものではなかった。4月7日には太上天皇の尊号が贈られた。
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