猪熊事件と譲位問題とは? わかりやすく解説

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猪熊事件と譲位問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 02:40 UTC 版)

後陽成天皇」の記事における「猪熊事件と譲位問題」の解説

慶長8年1603年)、家康征夷大将軍任じ江戸幕府開かれた朝廷権威抑制をはかる幕府武家伝奏設けて更なる監視態勢整えた慶長10年1605年)には譲位意向示し家康了承したため仙洞御所造営開始された。 後陽成治世では朝廷内の風紀乱れ慶長4年には久我敦通勾当内侍醜聞がたち、後陽成禁裏内での掟を定めている。掟は慶長8年強化されたが、それでも禁裏内の風紀粛正達成されなかった。慶長14年1609年6月宮中女官密通事件相次いで発覚し首謀者とされた猪熊教利兼康頼継逃亡した猪熊事件)。これに激怒した天皇被疑者らの極刑強硬に主張し摂家衆もこれに同意与えてしまった。この命令所司代板倉勝重伝えられたものの、勝重は官女取り調べを行うなど慎重に動き9月23日には家康意向朝廷伝えられた。天皇は自ら処罰することを諦め家康裁断任せると回答した。これにより勝重の裁定猪熊・兼康が処刑されたものの、公家衆5人と女官5人・女嬬2人蝦夷伊豆新島などへとそれぞれ配流するにとどめた天皇はこの処分手ぬるいものであり幕府意向屈した考えて不満を抱き、この一件により天皇女院とも意志隔たり生んで側近公家衆生母皇后とも逢うことが少なくなって孤独の中で暮らすようになり、12月には譲位意向家康伝達した政仁親王への譲位家康了解を得、慶長16年1611年3月20日前後行われること内定した。 ところが閏2月17日になって家康が五女市姫死去理由譲位延期要請してきた。天皇激怒したが従わざるを得なかった。家康譲位とともに行われる政仁親王元服期日などでも介入し天皇不興買った。朝幕関係の悪化憂い摂家衆が天皇必死に説得し天皇も「なにとなりともて候」と抵抗諦めた譲位3月27日執り行われ後陽成には2000石の仙洞御料進献されたが、多くの子女を抱え後陽成にとってはこの額は十分と言えるものではなかった。4月7日には太上天皇尊号贈られた。

※この「猪熊事件と譲位問題」の解説は、「後陽成天皇」の解説の一部です。
「猪熊事件と譲位問題」を含む「後陽成天皇」の記事については、「後陽成天皇」の概要を参照ください。

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