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久我信通

読み方こが のぶみち

江戸後期公卿。敏通の子実父広幡長忠内大臣正二位右大将に至る。寛政7年(1795)歿、52才。諡号は惟古念院。

久我信通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/17 16:01 UTC 版)

 
久我信通
「久我右大将」
『寛政二庚戌年十一月廿六日仙洞御所遷幸御行列』より
時代 江戸時代後期
生誕 延享元年9月6日1744年10月11日
死没 寛政7年9月13日1795年10月25日
官位 正二位内大臣
主君 桃園天皇後桜町天皇後桃園天皇光格天皇
氏族 広幡家久我家
父母 父:広幡長忠、母:家女房
養父:久我敏通
兄弟 広幡前豊信通西園寺賞季室、観心院伊達重村室)
一条道香の娘
綾姫、西洞院信庸室、養子:通明
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久我 信通(こが のぶみち)は、江戸時代後期の公卿。官位は正二位内大臣久我通名は曽祖父にあたる。

経歴

宝暦6年(1756年)に久我家養子に入り、同年叙爵した。以降清華家当主として早いスピードで累進し、侍従左近衛権少将左近衛権中将を経て、宝暦13年(1763年)に従三位となり、公卿に列する。踏歌節会外弁・権中納言を経て、明和5年(1768年)に従二位となり、英仁親王(後桃園天皇)の立太子にともない、その春宮権大夫となる。明和7年(1770年)親王の即位とともに辞す。明和8年(1771年)に権大納言となる。安永4年(1775年)には後桜町上皇の院執権となった。安永5年(1776年)に武家伝奏に就任し、寛政3年(1791年)までの長きにわたりつとめた。この間の寛政元年(1789年)には右近衛大将右馬寮御監にも任じられる。寛政3年(1791年)から内大臣に就任するも翌寛政4年(1792年)には辞した。この年に朝廷と幕府の間で典仁親王への尊号一件事件が発生したが、信通は朝廷側の代表にたてられ、中山愛親正親町公明らを伴って江戸へ下向している。

系譜

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