黒田継高とは? わかりやすく解説

黒田継高

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/27 10:18 UTC 版)

 
黒田継高
黒田継高像(福岡市博物館蔵)
時代 江戸時代
生誕 元禄16年8月11日1703年9月21日
死没 安永4年6月17日1775年7月14日
改名 菊千代(幼名)→長好→継高
別名 官兵衛(通称
戒名 功崇院章山道善
墓所 崇福寺福岡県福岡市
官位 従四位下左近衛権少将筑前守、図書頭
主君 徳川家宣家継吉宗家重家治
筑前福岡藩
氏族 黒田氏
父母 父:黒田長清
母:伊予(小笠原長勝娘)
養父:黒田宣政
養母:艶姫(南部行信の娘)
兄弟 利、男子、継高
正室:(黒田宣政養女)
側室:田中氏など
重政長経ら四男十五女
養子:政長(長泰)[注 1]治之一橋宗尹の五男)
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黒田 継高(くろだ つぐたか)は、筑前福岡藩の第6代藩主。藩祖如水、初代長政の血統で最後の福岡藩主となった。

生涯

元禄16年(1703年)、筑前直方藩主・黒田長清の次男として誕生した。幼名は菊千代、のち長好(ながよし)と名乗る。正徳4年(1714年)4月23日、宗家であり従兄にあたる福岡藩主黒田宣政の養嗣子となった。同年5月1日、7代将軍徳川家継御目見し、同年12月1日に家継の前で元服、その偏諱を受けて継高に改名した[注 2]。従四位下・筑前守に叙任し、松平姓を賜与される[1]。後に侍従、次いで左少将に任官した。享保4年(1719年)11月22日、宣政の隠居により家督を相続する[2]。享保5年(1720年)4月15日、実父の長清が死去した。長清には継高以外に男子がなかったため、これにともなって直方藩領は宗家に返還・編入される形で継高のものとなった。歴代福岡藩主の中で最も長い50年もの間、藩主を勤めた。

病弱な養父とは対照的に非常に頑健で精力的であり、吉田栄年(よしだ まさとし)・保年(やすとし)父子[注 3]を登用して藩政改革にも積極的に取り組んだ。運上銀の改定、享保の大飢饉後の窮民対策などがそれである。栄年と協力して行なった藩政改革は、一定の成果を収めている[要出典]宝暦4年(1754年)には早良郡田島村に別邸屋敷、友泉亭を造営した(現在の友泉亭公園[3]。また、伝統芸能、文化を愛した。中でも能楽を大変好み、桜田の黒田家上屋敷にて、盛大な能会を何度も催している。この間、将軍御成があったり老中たちも黒田家を何度も訪れ、演能する能役者のために邸内に稽古場を作り、自身も嗜んだ。

晩年の継高は、次男・重政、四男・長経という2人の次期当主となりうる男子を相次いで亡くし、後継者問題に見舞われた。継高や重臣は評議の上で、岡山藩池田宗政の次男・政長改め長泰(後の相良長寛)を養子に迎えることに決定した。長泰は継高の外孫(長女・藤子の次男)であった。しかし、宝暦13年(1763年)9月、幕府は10代将軍徳川家治の従弟にあたる隼之助(一橋宗尹の五男、後の黒田治之)を養子にすることを打診してきた。継高は家臣団・一門と協議のうえ、藩存続のために隼之助を養子に迎え入れることにした。亡くなった重政の娘・屋世を養女に迎え、隼之助と婚約させて女系での黒田家の血統維持をはかったものの、屋世は11歳で早世した。

明和6年12月10日(1770年)、継高は隠居し、養子治之に家督を譲った。隠居後は図書頭を称した。安永4年(1775年)6月17日、福岡城にて死去した。享年73。法号は功崇院章山道善。

逸話

宝暦2年(1752年)、雷山に大悲王院千如寺福岡県糸島市)を再興、堂宇を建立した。境内の大は著名である。

明和5年(1768年)、本丸天主台東側にあった藩祖長政公を祀る祠堂に「武威円徳聖照権現」と名付けて創建したのが、現在の光雲神社(福岡市中央区)の始まりとされる[4]

2019年に大河内松平家の子孫宅から発見された青表紙本の「若紫」は明治時代に作成された目録から1743年(寛保3年)まで継高が所有していた事が明らかになっている。

徳川幕府家譜

第5代将軍徳川綱吉の養女であった竹姫(浄岸院)は、幾度かの縁談ののち、改めて第8代将軍徳川吉宗の養女として薩摩藩島津家島津継豊に嫁いだ。ただ、『徳川幕府家譜』では「黒田継高に嫁いだ」と誤記されており、30年ほどのちに継豊が死去した際の記述でも「黒田継高が死去」と誤記されている。竹姫と島津継豊の娘である菊姫(眞含院)は、継高の子の黒田重政に嫁いでいる。

系譜

脚注

注釈

  1. ^ 池田宗政の次男、継高の外孫。のち縁組自体が解消、相良家を継ぐ。
  2. ^ 「高」の字は祖先の黒田孝高から1字を取ったものであり、また孝高と同じく「黒田官兵衛」を通称とした。
  3. ^ 正確には保年は栄年の婿養子。

出典

  1. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年、206頁。
  2. ^ 山本 2015, p. 16.
  3. ^ 山本 2015, p. 29.
  4. ^ 光雲神社公式ホームページ”. 光雲神社. 2022年4月6日閲覧。

参考文献




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