南部利謹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/25 07:02 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動南部 利謹(なんぶ としのり、延享3年8月16日(1746年9月30日) - 文化11年11月19日(1814年12月30日))は、陸奥盛岡藩第8代藩主・南部利雄の長男。母は前田利章の娘。正室は黒田継高の息女、麻姫。官位従四位下、信濃守。通称は三郎。諱は嵩信、のち利謹。子は12代藩主南部利済(次男)など。側室で利済生母である石原氏(清鏡院)は俗称「油御前」といわれる庶民出の女性で、塗師の寡婦であり、利謹の死後に聖寿寺に出家し、妙白尼と称した。
目次
経歴
南部利雄の嫡子であり、盛岡藩嗣子となる。附役は用人の葛西正兵衛や伊東清作、下斗米小四郎が兼務する。宝暦11年(1761年)2月15日、将軍徳川家治に御目見する。同年12月18日、従五位下・信濃守に叙任する。安永3年(1774年)11月18日、公的には病気を理由に嫡子の地位を辞退する。実際には乱行を理由に廃嫡された。代わりに旗本であった分家の利正が父利雄の養嗣子となる。廃嫡後は盛岡で生活する。
人物と廃嫡の理由
父の利雄が別名を「惣四郎様(そうしろうさま)」(家臣が進言すると何でも「そうしろ」と答えたという)と呼ばれたのと違い、文武両道で覇気のある人物であった。しかし、田沼意次に取り入り幕閣にのし上がろうと野望を抱き、本藩に知らせず独断で政界工作を行っていた事実が露見したため、これに驚いた父利雄が幕府に「病気のため湯治させる」と申し出て盛岡に連れ戻し、利謹は廃嫡された。
側室の「るん」を溺愛し、るんの死後はその母親まで妾にするなど、常軌を逸した入れ込みようであった。その後「るん」に瓜二つであった町人の妻(於米之方、油御前)を強引に側室にした。
江戸住みの頃は、昼間から側室の部屋に入り浸り、情事にふけるなど、非常に好色であった。
また寛政2年(1790年)に盛岡藩を旅した高山彦九郎は領民から、若殿(利謹)に政務を批判された役人たちが讒言して押し込めた、という話を聞いたと記している[1]。なお、子の利済は父である利謹の諱の一字である「謹」を自身や子につけている。
参考文献
- 「三百藩家臣人名事典 1」(新人物往来社)
- 「高山彦九郎日記」第3巻(西北出版、1978年)
- 「岩手県史 第五巻」
- 橋本博「改訂増補・大武鑑・中巻」(名著刊行会、1965年)
- 「三百藩藩主人名事典1」(新人物往来社)
- 佐々木京一「三閉伊一揆の底流 南部盛岡藩の権力闘争」(国書刊行会) 第3回森嘉兵衛賞受賞
脚注
- ^ 『高山彦九郎日記』第3巻P280-291参照
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