久我建通とは? わかりやすく解説

久我建通

読み方こが たけみち(たてみち)

幕末・明治公卿勤王家。京都生、東京住。久我通明の子。号は崖君・既酔、法号素堂千種有功和歌学び、また絵も能くした。内大臣に進むが公武合体尽力した為、蟄居落飾を命ぜられる。維新後賀茂神社大宮司宸翰御用掛・大教正務めた明治36年(1903)歿、89才。

久我建通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/25 15:40 UTC 版)

 
久我建通
久我建通
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文化12年2月1日1815年3月11日
死没 明治36年(1903年9月26日
別名 号:翠君、素堂
官位 従一位内大臣
主君 仁孝天皇孝明天皇明治天皇
氏族 一条家久我家
父母 父:一条忠良、母:細川富子(細川斉茲の娘)
養父:久我通明
兄弟 一条実通一条忠香建通一条秀子、知君、通子、崇子など
養兄弟:志通
正室:鷹司麗子鷹司政通の娘)
松島(後藤言中の娘)
通久愛宕通旭、範姫、北畠通城、幸姫、野宮定美、東久世通暉、久我環渓(養子)
テンプレートを表示

久我 建通(こが たけみち、旧字体久我 建󠄁通󠄁)は、江戸時代後期の公卿関白一条忠良の子。内大臣久我通明の養子。官位正二位・内大臣、維新後従一位、勲一等。久我家34代当主。翠君、素堂と号した。

経歴

京都で誕生する。文政5年(1822年)に叙爵し、文政9年(1826年)に従三位天保5年(1834年)に正二位嘉永5年(1852年)に大納言と昇進を重ねる。安政元年(1854年)に議奏となり、以後は朝幕間の調停に努め、条約勅許問題、和宮降嫁問題などに関与した。当時の内裏を掌握していたのは、摂政関白でも武家伝奏でもなくこの建通の感があったことから、俗に「権関白」と呼ばれた。

安政5年(1858年)に右近衛大将文久2年(1862年)に内大臣・国事御用掛など要職を務めた。しかし攘夷派に恨まれ、間もなく弾劾を受けて失脚、蟄居落飾処分となった。

明治元年(1868年)に赦免され、宮内省麝香間祗候加茂社司、大教正皇典講究所副総裁などを務めた。明治22年(1889年)、従一位・勲一等に叙せられた。

なお明治になってから建通は、廷臣八十八卿列参事件では自分が中心的役割を果たしたと述懐しているが(『孝明天皇紀』)、『岩倉公実記』では中心は岩倉具視としており、解決をみない。

系譜

栄典・授章・授賞

位階
勲章

脚注

  1. ^ 『官報』第1351号「叙任及辞令」1887年12月28日。
  2. ^ 『官報』第1952号「叙任及辞令」1889年12月28日。
  3. ^ 『官報』第6074号「叙任及辞令」1903年9月29日。

外部リンク




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「久我建通」の関連用語

久我建通のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



久我建通のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの久我建通 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS