富小路敬直
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/21 13:25 UTC 版)
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 天保13年5月12日(1842年) |
死没 | 明治25年(1892年)10月28日 |
別名 | 敲雲 |
官位 | 正四位、中務大輔 |
主君 | 孝明天皇→明治天皇 |
氏族 | 富小路家 |
子 | 治直、相楽富道、相楽綱直 |
富小路 敬直(とみのこうじ ひろなお、1842年(天保13年5月12日) - 1892年( 明治25年)10月28日)[1]は、日本の公家、華族。落飾していた時期の法名は敲雲[2]。
経歴
嘉永元年12月24日(1849年)、7歳で孝明天皇の御児として側仕えをはじめた[3]。公武合体派の公家の一人であり、文久元年(1861年)和宮親子内親王の降嫁に従って江戸に下向している[1]。このため岩倉具視、久我建通、千種有文、女官の今城重子、堀川紀子らとともに四奸二嬪の一人として攘夷過激派の公家から糾弾を受け、文久2年(1862年)に蟄居、落飾、さらに謹慎処分に追い込まれた[1]。慶応3年12月8日(1868年1月3日)の王政復古の大号令の際に、他の四奸二嬪とともに赦免され、還俗することとなった[2]。
明治維新後には教導職の宣教権博士[4]や侍従を務めた。明治12年(1879年)には明治天皇の勅使として琉球藩に向かい、藩王尚泰に対して上京を促す宮内卿徳大寺実則の書簡を渡している[5][6]。明治14年(1881年)に子爵に叙せられた。
脚注
- ^ a b c 「富小路敬直」『デジタル版日本人名大辞典+Plus』 。コトバンクより2025年7月21日閲覧。
- ^ a b 森谷秀亮「王政復古の大号令について」『駒澤大學文學部研究紀要』第26巻、駒澤大学、1968年、27頁、doi:10.69200/0002003228、ISSN 04523636、 NAID 110006992462。
- ^ 林大樹「近世公家社会における〈御児〉について」『人文』第16巻、学習院大学人文科学研究所、2018年、332頁、 ISSN 18817920、 NAID 120007172473。
- ^ 「富小路宣教権大博士長崎ヘ出張」 アジア歴史資料センター Ref.A15070939600
- ^ 「侍従冨小路敬直沖縄県ヘ出発ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A01100192500
- ^ 波平恒男「琉球処分の歴史過程・再考 -「琉球藩処分」の本格化から「廃藩置県」へ-」『政策科学・国際関係論集』第12巻、琉球大学法文学部、2010年、79-82頁、 ISSN 13438506、 NAID 120002165254。
関連項目
日本の爵位 | ||
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先代 華族制度創設 |
子爵 富小路家初代 1881年 - 1892年 |
次代 富小路隆直 |
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