大炊御門家孝とは? わかりやすく解説

大炊御門家孝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/07 22:53 UTC 版)

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大炊御門家孝
時代 江戸時代中期
生誕 延享4年1月25日1747年3月6日
死没 寛政11年5月13日1799年6月16日
別名 号:瑶台寺
官位 従一位右大臣
主君 桃園天皇後桜町天皇後桃園天皇光格天皇
氏族 大炊御門家
父母 父:大炊御門経秀、母:醍醐冬熙の娘
三条季晴の娘
継室:宗義蕃の娘
経久内藤政憲、彰順院、久我信通養女、庭田重能正室
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大炊御門 家孝(おおいのみかど いえたか)は、江戸時代中期の公卿内大臣大炊御門経秀の子。官位従一位右大臣大炊御門家24代当主。桃園天皇(116代)・後桜町天皇(117代)・後桃園天皇(118代)・光格天皇(119代)の四朝に亘って仕えた。

経歴

寛延元年(1748年)に叙爵してから、清華家当主として速いスピードで昇進し、左近衛権少将・右近衛権中将をへて、宝暦6年(1756年)に従三位に達し公卿に列する。その後も権中納言権大納言・踏歌節会外弁を歴任し、天明元年(1781年)より右近衛大将右馬寮御監となるも、天明2年(1782年)からは右近衛大将を辞職して、皇太后近衛維子皇太后宮権大夫に転じた。しかし翌年には維子皇太后が崩御したため、職を辞している。天明7年(1787年)に内大臣となり、天明8年(1788年)には踏歌節会内弁を務めた。寛政元年(1789年)に内大臣を辞職し、従一位を授与された。寛政4年(1793年)には再度内大臣に任じられたが、すぐに辞職している。寛政8年(1796年)には右大臣となったが、同年のうちに辞職した。

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