宗義功 (富寿)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 宗義功 (富寿)の意味・解説 

宗義功 (富寿)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/26 06:23 UTC 版)

 
宗義功
宗義功像(養玉院蔵)
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 安永2年2月29日1773年3月21日
死没 文化10年5月17日1813年6月15日
改名 富寿、猪三郎、義功
戒名 浄元院
墓所 長崎県対馬市厳原町国分の万松院
官位 従四位下侍従対馬守式部大輔
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
対馬府中藩
氏族 宗氏
父母 宗義暢、永留藤右衛門娘織江
兄弟 猪三郎(義功)富寿(義功)、種寿ら
大炊御門家孝の娘彰順院
シケ(大山氏)、熊(熊生氏)、村上氏
義質、暢孫質直、津江左善、大浦伯耆ら
特記
事項
兄の猪三郎の死後に身代わりで藩主となり、公式には同一人物とされた。猪三郎の幼名は兄に代わって名乗ったもの。
テンプレートを表示

宗 義功(そう よしかつ)は、対馬国府中藩12代藩主。ただし、第11代藩主で同母兄の猪三郎(義功)と同じ人物として藩主に擁立されたため、第11代藩主と見なされることもある。

生涯

安永2年(1773年)2月29日、第10代藩主・宗義暢の六男として生まれる。ただし江戸幕府の記録では兄と生年を合わせるために明和6年(1769年)生まれと報告している。天明5年(1785年)に兄で第11代藩主だった猪三郎が死去したが、猪三郎は第10代将軍・徳川家治御目見していなかった。改易を恐れた家臣団は幕閣の示唆もあって、猪三郎の弟である富寿と種寿のうち、死去したのは種寿であるとして、富寿を義功に、種寿を富寿にそれぞれすり替え、そして富寿が家督を継いで藩主となった。ただし幕府の記録では、兄に合わせるため安永7年(1778年)相続ということにされている。

天明7年(1787年)から親政を開始し、倹約の徹底や講武所・講学所の設置などに務めたが、もともと病弱で若年のため、家臣団は主導権や交易をめぐっての派閥争いを繰り返し、藩も財政難になるなどの混乱が続いた。寛政2年(1790年)11月、従四位下・侍従・対馬守・式部大輔に叙任される。

文化9年(1812年)10月2日、家督を次男の義質に家督を譲って隠居する。文化10年(1813年)5月17日に死去した。享年41。

系譜

  • 父:宗義暢(1741年 - 1778年)
  • 母:織江、瑞祥院 - 永留藤右衛門の娘
  • 正室:彰順院 - 大炊御門家孝の娘
  • 側室:シケ - 大山治部允の娘
  • 側室:熊 - 熊生弥五六の姉
  • 側室:村上新介の娘
  • 生母不明の子女
    • 三男:暢孫質直
    • 四男:津江左善
    • 五男:大浦伯耆
    • 女子:徳 - 松平斉典正室のち九条尚忠正室

偏諱を与えた人物

  • (かつしげ、次男で次代藩主。のち義質に改名)
  • 杉村功加(宗氏家臣で、次代・義質亡き後、その遺言を偽造して政争を巻き起こす原因を作ったとされる)

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「宗義功 (富寿)」の関連用語

宗義功 (富寿)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



宗義功 (富寿)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの宗義功 (富寿) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS