宗義如とは? わかりやすく解説

宗義如

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/30 04:43 UTC 版)

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宗 義如
時代 江戸時代中期
生誕 享保元年10月18日1716年12月1日
死没 宝暦2年1月5日1752年2月19日
改名 弥一(幼名)、義如
戒名 円鏡院殿正空妙因大居士
墓所 長崎県対馬市国分の万松院
官位 従四位下、刑部大輔、侍従対馬
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重
対馬府中藩
氏族 宗氏
父母 父:宗義誠、母:樋口真峯の娘・竹(仙寿院)
養父:宗方熈
兄弟 義如義蕃
正室細川宣紀の娘・喜和(香厳院)
側室:村江半弥の娘・掃部、早田佐五衛門の娘、イロ、佐伯市左衛門の姉、土田宇平太の妹、寺尾徳斎の姉、鶴岡忠兵衛の妹
如式(長男)、義暢、俵如泰(4男)、浅井如英(5男)、樋口暢朝(6男)、樋口暢英(7男)、浅井暢謙(8男)、
養子:義蕃

宗 義如(そう よしゆき)は、対馬府中藩の第8代藩主。

生涯

享保元年(1716年)10月18日、第6代藩主・宗義誠の長男として生まれる。享保15年(1730年)に父が死去したとき、若年のために家督は継げず、代わって叔父の方熈が継いだ。享保16年(1731年)5月、義如は方熈の養子となり、12月に従四位下、刑部大輔に叙位・任官される。享保17年(1732年)9月11日、方熈が隠居したため、家督を継いで第8代藩主となった。このとき、対馬守に任官され、12月に侍従に任官される。

朝鮮貿易の衰退などから対馬府中藩の財政は悪化していたが、享保17年(1732年)と享保19年(1734年)の大火などの災害もあってさらに財政悪化が進み、倹約令を出し、延享4年(1747年)には家臣の知行借上を強化するなどした。さらに家老を幕府に派遣して、補助金を得るように交渉した。これにより幕府から毎年1万両を与えられることになったが、寛延3年(1750年)に停止させられた。また、延享4年(1747年)に強訴が起こるなど、改革も効果は無かった。

宝暦2年(1752年)1月5日、当時対馬で流行していた疱瘡が原因で死去した。享年37。跡を弟で養子の義蕃が継いだ。

偏諱を与えた人物

  • 氏江(実弟、のちの宗義蕃、次代(第9代)藩主)
  • 式(ゆきのり、長男)
  • 真孫(3男、のちに義蕃の養嗣子となり宗義暢に改名し第10代藩主となる。)
  • 泰(4男)
  • 浅井英(5男)
  • 樋口連(従兄弟、養父である叔父・宗方熈(第7代藩主)の長男なので義兄弟でもある。方熈が継いでいた樋口家を継ぐ。)
  • 村岡喬(従兄弟、伯父・宗義方(第5代藩主)の三男)




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