広幡前豊とは? わかりやすく解説

広幡前豊

読み方ひろはた さきとよ

江戸中期公卿。長忠の男。初名は輔忠。内大臣従一位任じられる丹青の道を好み青雲号する天明3年(1783)歿、42才。

広幡前豊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/27 04:47 UTC 版)

 
広幡前豊
時代 江戸時代中期
生誕 寛保2年2月20日1742年3月26日
死没 天明3年12月19日1784年1月11日
改名 輔忠(初名)→前豊
官位 従一位内大臣
主君 桜町天皇桃園天皇後桜町天皇後桃園天皇
氏族 広幡家
父母 父:広幡長忠、母:家女房
養父:近衛内前
兄弟 前豊久我信通西園寺賞季室、観心院伊達重村室)
賢子女王(伏見宮貞建親王の王女)
前秀、三条西廷季室、綾小路俊資室
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広幡 前豊(ひろはた さきとよ)は、江戸時代中期の公卿。官位は従一位内大臣広幡家4代。

経歴

初名は輔忠(すけただ)といったが、近衛内前の猶子に入り、偏諱(「前」の字)を賜って前豊(「豊」は祖父・豊忠より1字を取ったもの)と改名している。

1745年(延享2年)に叙爵してから累進し、侍従右近衛権少将右近衛権中将などを歴任し、1754年(宝暦4年)に従三位に達して公卿に列した。またこの間の1751年(宝暦元年)に近衛内前猶子となる。その後も権中納言権大納言踏歌節会外弁などをつとめ、1769年(明和6年)に右近衛大将右馬寮御監に就任した。1770年(明和7年)、後桜町天皇の譲位・院政の開始にあたってその院執権となり、1774年(安永3年)まで院庁に奉仕した。また1771年(明和8年)には新たに皇太后となった一条富子桃園天皇女御後桃園天皇生母)の皇太后大夫も兼務していたが、こちらはすぐに辞職している。1775年(安永4年)に内大臣に任ぜられたが、同年のうちに辞職。1781年(天明元年)には従一位に達した。1783年(天明3年)に薨去。享年42。

系譜

関連項目

先代
広幡長忠
広幡家
第7代
次代
広幡前秀



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