梅渓家とは? わかりやすく解説

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梅溪家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/13 05:08 UTC 版)

梅溪家
笹竜胆 ささりんどう
本姓 村上源氏久我家庶流
家祖 梅溪季通
種別 公家羽林家
華族子爵
出身地 山城国
主な根拠地 山城国
兵庫県
東京府
著名な人物 至心院
池坊保子
凡例 / Category:日本の氏族

梅溪家(うめたにけ[1]、うめだにけ[2][注釈 1])は、村上源氏久我家庶流公家華族である。公家としての家格羽林家、華族としての家格は子爵[4]

歴史

慶長4年(1599年)に久我家当主の権大納言久我敦通が、勾当内侍との密通の事で勅勘を蒙り、その息子左近衛中将久我通世ともども出仕を止められた事件があった。元和元年(1615年)に将軍徳川秀忠の執奏で勅勘が解かれたが、通世が久我家の家督を継ぐことは認められず、その弟通前が久我家を継いだ[2]。一方通世の子季通には、寛永期に新たな堂上家の創設が勅許され、梅溪家が創設されることになった[2]源通親の四男後土御門内大臣定通の曽孫右少将定宗が梅溪を号としたことが『尊卑分脈』に見え、これが家名の由来と考えられる[2]

公家としての家格は羽林家[2]新家[2]内々[2]有職故実を家業とする[2]鷹司家の家札[2]。江戸時代の所領の表高は150石[5][注釈 2]。菩提寺は大徳寺昌林院[6][2]

明治維新後の明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると梅溪家も公家として華族に列した[7][8]

明治3年に定められた家禄は、現米で266石3斗[9][注釈 3]。明治9年8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は9654円72銭8厘(華族受給者中396位)[11]

明治前期に当時の当主9代通善の住居は京都府愛宕区東紫竹大門村にあった。当時の通善は淑子内親王祇候を務めていた[6]

明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同8日に大納言直任の例がない旧堂上家[注釈 4]として通善が子爵を授けられた[4]

10代通治は平野神社宮司や男山八幡宮大宮司などを歴任。その弟通魯が養子として跡を継ぎ、戸畑鋳物株式会社の監査役などを務めた。12代通虎は三重県人松平家晃の次男として生まれたが、通魯の弟通昌の外孫にあたることから通魯の養子として跡を継ぎ[14][3]貴族院の子爵議員に当選して務めた[3]。通虎の三女・保子は華道家の池坊専永の夫人となり衆議院議員当選5回の政治家である[15]

昭和前期の梅溪子爵家の住居は、兵庫県武庫郡甲子園、および東京市豊島区椎名町にあった[14]

系譜

実線は実子、点線(縦)は養子。
久我通世
 
 
 
梅溪季通1
 
 
 
英通2
 
 
 
通条3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
通仲4 千種有補 白川雅富王 幸子
 
 
 
通賢5
 
 
 
通同6
 
 
 
行通7
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
通修8 白川雅寿王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
通訓 通善9[16] 通治
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
通治10 通魯 通弘
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
通魯11 通昌
 
 
 
通虎12[17]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
通明13 池坊保子 通彦

脚注

注釈

  1. ^ もともとは「うめだに」と読んだが、近年に「うめたに」と称している[3]
  2. ^ 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によれば幕末期の梅園家領は、山城国綴喜郡河原村のうち100石、山城国相楽郡菅井村のうち50石の合計2村・150石)
  3. ^ 明治3年12月10日に定められた堂上華族の家禄の計算方法は、本禄米に分賜米・方料米・救助米・臨時給与を合算して現高を出し、現米と草高の比率である四ッ物成で計算して草高を算出し、その二割五分を家禄とするものである[10]
  4. ^ 中納言からそのまま大納言になることを直任といい、中納言を一度辞してから大納言になるより格上の扱いと見なされていた。叙爵内規は歴代当主の中にこの大納言直任の例があるか否かで平堂上家を伯爵家か子爵家かに分けていた[12]。梅渓家の場合は直任か以前に、そもそも権大納言まで登った当主がいなかった[13]

出典

  1. ^ 野島寿三郎 1994, p. 102.
  2. ^ a b c d e f g h i j 橋本政宣 2010, p. 710.
  3. ^ a b c 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 257.
  4. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 329.
  5. ^ 公卿類別譜(公家の歴史)梅溪
  6. ^ a b 石井孝太郎『国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑』深沢堅二、1881年(明治14年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994441/75 国立国会図書館デジタルコレクション 
  7. ^ 浅見雅男 1994, p. 24.
  8. ^ 小田部雄次 2006, p. 13-14.
  9. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 5.
  10. ^ 刑部芳則 2014, pp. 105–106.
  11. ^ 石川健次郎 1972, p. 62.
  12. ^ 浅見雅男 1994, p. 118.
  13. ^ 野島寿三郎 1994, p. 102-104.
  14. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 321.
  15. ^ 梅溪家(羽林家) (日本語)
  16. ^ 六条有言の次男。
  17. ^ 松平家晃の次男。10代通治の実子である通昌の外孫。

参考文献

外部リンク




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