王氏としての王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 04:24 UTC 版)
もともと、「王氏」(及び「諸王」)とは、皇親である二世孫王から四世王までを指す言葉であったが、仏門に入る皇族が増え、皇親たる「王氏」は激減するようになると、五世以下の皇胤であって、世襲的に王号を称する者を指す言葉となった。なお、養老令は、文言上、五世王は「王」と称することを許すのみであるが、実際には、六世以下の皇胤であっても、臣籍降下しない限り、「王」と称することが許されていた。 皇のように、親の範囲外にある天皇の六世孫については臣籍にありながら[要出典]王号の使用のみを許された。後に皇親の範囲は天皇の六世孫[要出典]まで拡大されたが、臣籍に移行しながら[要出典]姓を持たず、なおも王号の使用が認められた者を総称して王氏といった。通常、臣下には賜姓されるべきところ、王氏たる王は源氏や平氏など賜姓の伴う臣籍降下を経ず、代が下ったことで自動的に皇親の範囲から外れた者であり、また、王号の使用が許されたこともあって特定の氏を有さなかった。このため、皇親から外れた王の集団を氏族に擬して王氏と呼び、他氏同様に氏爵を通じて叙位任官を受けた。つまり、皇親たる王が皇位継承権を有する皇族だとすれば、王氏たる王は皇位継承権を喪失した旧皇族だといえる。但し、皇室や皇族・旧皇族とはあくまで明治時代以降に皇室典範で規定された近代以降の概念であり、また、旧皇族とは王号を返上した存在であることから、厳密には王氏としての王と旧皇族は完全に比等する関係にないことも留意を要する。 なお、平安時代には天皇の庶出の皇子や傍系の皇孫が臣籍降下する例または出家し仏門に入る例が増えたことで、王氏たる王の数は自然に減少していったとされる。ところが、伊勢神宮の奉幣使は王氏の中から選ばなければならないなど朝廷の祭祀には王号を有する者の存在が必要であった。そのため、花山天皇の皇胤たる花山源氏の当主について神祇伯の官職にある間、王氏に復し、王号の使用を認めるなどの特例が定着し、同氏が鎌倉時代以降、白川姓を名乗ったことから、白川家または神祇伯を世襲したことに因んで白川伯王家、伯家などと称した。この白川伯王家は基本的に源氏に連なる公卿いわば貴族として存続したが、神祇伯に任官している間は王氏であり続けた。同家の地位は基本的に花山源氏の血筋で世襲されたが、後に村上天皇の皇胤である村上源氏たる公家の中院家や梅渓家から養子を招くようになり、後に皇胤でない藤原氏の流れを汲む公家高倉家や冷泉家からも養子を招いて王号を名乗らせるなど、天皇を父系の祖先としない藤原氏出身の王も登場することもあった。しかし、明治時代以降、白川伯王家は王号を返上し、華族に編入、子爵の爵位を授かったことで、王氏たる王の地位を失った。後に北白川宮能久親王の六男上野正雄伯爵の子が白川資長の養子となったものの、この養子縁組は結局解消されて白川家は断絶。制度としてのみならず血脈としても王氏たる王の存在は消滅した。
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