王浚を討つ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:12 UTC 版)
同年5月、石勒は王浚の勢力を併呑することを目論み、先手を打って使者を派遣し、その動向を観察する事にした。これに諸将はみな「羊祜が陸抗に書を送って互いに通じ合ったように、対等に彼と接するべきです」と口を揃えた。この時、張賓は病で床に伏せていたが、石勒は病床の彼の下に赴くと、この件について相談した。すると張賓は「王浚は3部族の力(段部・宇文部・烏桓)を頼みに君主を代行しており、表向きは晋の臣下と称してはいますが、自ら帝位に立つ志を抱いているのは明白です。必ずや勇将・賢臣と協力して事業の完遂を図るでしょう。今、将軍の威声は内外に響き渡り、その動き一つで王浚の存亡に関わります。楚(項羽)が韓信を招いたように、彼は将軍を自分の配下に取り込もうとするでしょう。ここはよく考えて使者を派遣すべきです。ここで疑惑を招いてしまえば、後に奇略を用いようとしても、用いる所が無いでしょう。大事を成す者は、必ず先にへりくだって身を低くするものです。彼の臣下と偽りこれを奉じることが重要であり、親しく対等に接するべきではありません。羊祜と陸抗の話は、ここでは当たらないと思います」と答えた。これに石勒は「右侯の計略の通りである」と感嘆した。 12月、石勒は配下の王子春・董肇に多くの珍宝を持たせて王浚の下へ派遣し、書を渡して王浚を皇帝に奉戴する旨を伝えた。これに王浚は大いに喜び、すぐさま石勒の下に使者を派遣すると、贈り物を渡して返礼とした。 314年2月、石勒は兵を召集して王浚討伐を決行しようとしたが、并州の劉琨や鮮卑・烏桓が後顧の憂いであったため、躊躇してなかなか出発する事が出来なかった。これを見た張賓は進み出て「そもそも、敵国を強襲すると言うのは、その不意を突かねばなりません。軍に出陣準備をさせていながら、幾日経っても出陣されないとは、三方の慮(段部・宇文部・烏桓)が気がかりなのですかな」と尋ねた。石勒は「その通りだ。どうしたらよいだろうか」と問うと、張賓は「王彭祖は幽州に拠っておりますが、それも3部族の力に頼っての事でした。今、その全てが離反し逆に対立している状況です。これはつまり、外からの援護も無しに、我が軍と対しなければならないと言う事に他なりません。幽州は食料に乏しく、人民は皆、粗末な食事で堪え凌いでいる有様です。兵はと言えば、離反する者が現われているため弱体化しており、内に強兵の無いまま、我が軍を防がなければならないと言う事です。大軍が国境に姿を見せただけで、瓦解して収拾不能に陥るでしょう。今、三方の賊は抑えられておりませんが、その智勇は将軍に及ぶわけも無く、将軍が遠征したとしても動く事は出来ないでしょう。しかも奴らは、将軍が千里の遠方である幽州を取れるとは考えていないようです。軽騎であれば、往復に二日と掛かりません。仮に三方の賊が動いたとしても、急ぎ軍を返せばいいのです。機に応じて電撃的に発するのです。好機を逃してはなりません。また、劉琨と王浚と言えば、名目上同じ晋将ですが、実際には仇敵同士です。劉琨には書を送り、人質を送って講和を求めておけば、必ずや喜んで我が方に付くでしょう。王浚が滅ぶのですから、そうなれば王浚を救おうとも、我らを襲おうとも思わないでしょう」と答えた。これを聞いた石勒は「我が長らく悩んでいた事を、右侯は既に理解していたのか。もう迷う事は無いな」と述べ、出征を決断した。 石勒は軽騎兵を率いて夜の明けきらぬ内に出陣し、さらに張慮を劉琨の下に派遣して「我のこれまで犯してきた過ちはとても多く重い。王浚を討つことで少しでも償いたい」と伝えた。以前より王浚を忌々しく思っていた劉琨は、この申し出に大いに喜び「石勒は天命を知るや過ちを省み、連年の咎を反省し、幽州を抜いて善を尽す事を願い出てきた。今この願いを聞き入れ、任を授けて講和する事とした」と述べ、諸州郡に檄文を飛ばして石勒に手を出さないように命じた。 3月、石勒到来が王浚に伝わるも、王浚は石勒を信用しきっていたので、何一つ対策を打たなかった。石勒は入城するとそのまま役所に乗り込み、逃亡を図った王浚を捕らえると、襄国まで護送してその首を刎ねた。 後に濮陽侯に封じられた。
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