王浚・愍帝からの任官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 12:53 UTC 版)
洛陽が陥落して懐帝が捕らわれの身となって以降、幽州に割拠する王浚は自らの独断で承制(皇帝に代わって諸侯や守相を任命する権限)を行うようになっていた。慕容廆もまた散騎常侍・冠軍将軍・前鋒大都督・大単于に任じられたが、彼は皇帝の命令で無い事からこれを受けなかった。 313年4月、王浚は段部の大人段疾陸眷討伐を目論み、慕容廆と拓跋猗盧に協力を持ち掛けると、慕容廆は利害が一致していた事からこれに応じ、慕容翰を出撃させた。慕容翰は徒河・新城を攻略して陽楽まで至ったが、拓跋猗盧が派遣していた拓跋六脩が段疾陸眷に敗れて撤退したと聞き、進軍を中止した。そして徒河まで後退すると、青山を背にしてこの地に拠点を築いた。 建興年間(313年から317年)、長安で即位した愍帝もまた慕容部へ使者を派遣し、慕容廆は鎮軍将軍に任じられ、昌黎・遼東の二国公に封じられた。
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