王浚に従属
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/10 08:16 UTC 版)
303年12月、幽州刺史王浚は幽州での地盤確立の為に、娘の1人を段務勿塵に嫁がせた。これ以降、王浚とは親密な関係となり、王浚の上表により遼西公に封じられた。 304年8月、王浚が成都王司馬穎討伐の兵を挙げると、段務勿塵は兵を派遣して援護した。 309年9月、漢(後の前趙)の将軍石勒が常山に襲来すると、段務勿塵らは10万を超える騎兵を率いて飛龍山で迎え撃ち、大勝を挙げた。 310年10月、これらの功績により大単于の印綬が授けられ、次子の段匹磾には左賢王の印綬が授けられた。段務勿塵が亡くなると、長子の段疾陸眷が位を継承した。 311年12月、西晋の并州刺史劉琨が幽州の民3万を略奪すると、段疾陸眷はこれを討伐して民を王浚に返還した。 312年12月、王浚が石勒の本拠地襄国へ侵攻すると、段疾陸眷は従弟の段末波・弟の段匹磾・段文鴦らと共に従軍し、迎え撃って来た石勒軍の諸将を全て撃破した。だが、石勒の将軍の孔萇より奇襲を受けて大敗を喫し、段末波が捕らえられた。石勒が段末波を人質として講和を求めると、段疾陵眷は鎧馬・金銀を送って段末波の弟3人を人質に差し出し、段末波と交換した。また、石勒と同盟を結び、彼の養子の石虎との間に義兄弟の契りを結んだ。段末波もまた石勒と父子の誓いを交わし、石勒を恩人として崇めるようになった。これにより、王浚と段部の間には亀裂が入った。 当時、中原が混乱により、大量の流民が段部の下へ身を寄せていたが、段疾陸眷とその兄弟は武勇一辺倒であり、士大夫を礼遇しなかったので、多くが慕容部に流れてしまったという。
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