王浚・司馬騰の決起と前趙の樹立
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「司馬穎」の記事における「王浚・司馬騰の決起と前趙の樹立」の解説
司馬穎は恵帝の身柄を確保すると、建武と改元し、百官の役所を設置して自らの独断で殺生を行い、鄴城の南に天地を祀る祭壇を建てた。司馬越とその弟である司馬騰・司馬略・司馬模はみな声望があったので、司馬穎は罪を許して鄴に招こうとしたが、司馬越は応じなかった。また司馬穎は以前恵帝に謝罪するよう進言した司馬繇を怨んでいたので、これを捕らえて処刑した。丞相従事中郎王澄はこれまでの孟玖の悪事を暴き、司馬穎に孟玖を誅殺するよう進言すると、司馬穎はこれに従った。 また、匈奴左賢王劉淵(後の漢(前趙)の光文帝)を冠軍将軍に推挙し、匈奴五部の軍事を監督させて鄴城を守らせ、劉淵の子である劉聡(後の漢(前趙)の昭武帝)を積弩将軍に任じた。劉淵は密かに自立を目論んでいたので、葬儀を理由に匈奴本国への帰還許可を求めたが、司馬穎は許さなかった。その為、劉淵は本国にいる右賢王劉宣らに密かに命じ、匈奴五部と周辺の少数民族を集結させて挙兵の準備を進めた。 この頃、幽州で強大な兵権を握っていた都督幽州諸軍事の王浚は司馬穎の討伐を計画していたが、この動きを察知した司馬穎は王浚を暗殺すべく右司馬和演を刺客として送り込んだ。しかしこの計画は察知されて和演は殺害され、王浚は自ら幽州全域を領有すると、司馬越の弟であった東嬴公司馬騰と連携して司馬穎討伐の兵を挙げると、段部の段務勿塵や烏桓の羯朱を始め胡人・漢人合わせて2万人を率いて進軍を開始した。さらにこの挙兵に際して、司馬穎は自ら討伐への名乗りを上げた劉淵に出陣を命じたが、劉淵は司馬穎の援軍には配下の劉宏を派遣するのみに留め、自らは左国城に入ると大単于を自称して晋朝から自立し、間もなく漢(後の前趙)の樹立を宣言してしまった。
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