刺客として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 16:38 UTC 版)
左官に扮して晋陽に潜伏していた豫譲は、趙襄子の館に厠番として潜入し暗殺の機会をうかがったが、挙動不審なのを怪しまれ捕らえられた。側近は処刑する事を薦めたが趙襄子は「智伯が滅んだというのに一人仇を討とうとするのは立派である」と、豫譲の忠誠心を誉め称えて釈放した。 釈放された豫譲だが復讐をあきらめず、顔や体に漆を塗ってらい病患者を装い、炭を飲んで喉を潰し声色を変えて、さらに改名して乞食に身をやつし、再び趙襄子を狙った。その変わり様に道ですれ違った妻子ですら豫譲とは気付かなかったという。たまたま旧友の家に物乞いに訪れた所、旧友は彼を見てその仕草ですぐに見破った。旧友は「君程の才能の持ち主であれば、趙襄子に召抱えられてもおかしくない。そうすれば目的も容易く達成できるのに何故遠回りなことをするのだ?」と問うた。それに対して豫譲は「それでは初めから二心を持って仕えることになり士としてそれは出来ない。確かに私のやり方では目的を果たすのは難しいだろう。だが私は自分自身の生き様を持って後世、士の道に背く者への戒めにするのだ」と答えた。 やがて、豫譲はある橋のたもとに待ち伏せて趙襄子の暗殺を狙ったものの、通りかかった趙襄子の馬が殺気に怯えた為に見破られ捕らえられてしまった。趙襄子は、 「そなたはその昔に范氏と中行氏に仕えたが、両氏とも智伯に滅ぼされた。だが、その智伯に仕え范氏と中行氏の仇は討とうとしなかった。何故、智伯の為だけにそこまでして仇を討とうとするのだ?」 と問うた。豫譲は、 「范氏と中行氏の扱いはあくまで人並であったので、私も人並の働きで報いた。智伯は私を国士として遇してくれたので、国士としてこれに報いるのみである。」 と答えた。豫譲の執念と覚悟を恐れた趙襄子は、さすがに今度は許さなかった。 「豫譲よ。そなたの覚悟は立派だ。今度ばかりは許すわけには行かぬ。覚悟してもらおう。」 趙襄子の配下が豫譲を斬る為に取り囲むと豫譲は趙襄子に向かって静かに語りかけた。 「君臣の関係は『名君は人の美を蔽い隠さずに、忠臣は名に死するの節義がある』(賢明で優れた君主は人の美点・善行を隠さない、主人に忠実な家臣は節義を貫いて死を遂げる義務がある)と聞いています。以前、あなた様が私を寛大な気持ちでお許しになったことで、天下はあなた様を賞賛している。私も潔くあなた様からの処罰を受けましょう。…ですが、出来ることでしたら、あなた様の衣服を賜りたい。それを斬って智伯の無念を晴らしたいと思います。」 趙襄子はこれを承諾し豫譲に衣服を与えた。豫譲はそれを気合いの叫びと共に三回切りつけ、 「これでやっと智伯に顔向けが出来る。」 と満足気に言い終わると、剣に伏せて自らの体を貫いて自決した。趙襄子も豫譲の死に涙を流して「豫譲こそ、またとない真の壮士である」とその死を惜しんだという。この逸話は趙全体に広まり、豫譲は趙の人々に愛されたといわれる。 しかし豫譲に対する否定的な見方もある。戦国末期の思想家で、国家の定めた法による一元的支配を説いた韓非子は、忠義の死について次のように言う。「君主の尊厳を高め、国士を広めることに貢献する者、天下を太平にし、君主の名を後世に残すことに功績があった者、彼らこそ忠義の臣というべきである。ところが、かの豫譲は、智伯の臣となっても、上は、君主に説いて法規・統御術を理解させ、それによってわざわいを免れさせることは出来ず、下は、自分の部下を取り仕切って智氏の国を平安にすることもできず、趙襄子がその主の智伯を殺すと、豫譲は自分で入墨して鼻をそぎ、すがた形を変えて、見分けられないようにし、智伯のために趙襄子に復讐しようとした。これをみると、自分の身体を傷つけ、生命を捨てて君主のために尽くしたいという名声は高いが、智伯には秋はえる獣の毛すじほどの僅かな利益もない。このような行為を、私は愚劣だと思うのだが、世の君主は忠義だといって敬意をはらっている。」 韓非子によれば、臣下としての豫譲の務めは、君主の勢力を強めその名声を高めることにある、というのであろう。復讐にかける豫譲の努力は確かに並大抵ではないが、それは本来は智伯の生前に有効に使うべきものであった。智伯が敗れて死に追いやられた以上、豫譲は有能なる忠義の臣ではないのである。というのである。皮相な見方ではあるが、このように豫譲に対して否定的な見方もある。 なお、横山光輝の漫画『史記』では、「義に殉ずる」として上げられている。
※この「刺客として」の解説は、「豫譲」の解説の一部です。
「刺客として」を含む「豫譲」の記事については、「豫譲」の概要を参照ください。
刺客として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 15:01 UTC 版)
紀元前233年、燕の太子丹が人質になっていた秦から逃げ帰ってきた。丹は秦王政(後の始皇帝)と子供の頃に親しくしていたが、大人になってから秦で出会うと政は丹を見下し冷遇したので、怒った丹は燕に逃げ帰り復讐を考えた。秦をどうにかしたいという願いは、丹の私怨だけでもなく、当時圧倒的に秦が強勢であり、何か手を打たなければ燕も遠からず滅ぼされることが明らかであった。 政に対して刺客を送ることを考えた丹は田光に相談し、田光は荊軻を推挙した。丹が帰る時に「この事はご内密に」と言ったことで、田光は荊軻に話を告げた後で「太子に疑念を持たせたのは私の不徳の為すところだ」と自害した。 刺客の依頼を受けた荊軻は、用心深い政に謁見するための策を考えた。その策とは、一つが、燕でも最も肥沃な土地である督亢(とくごう、現在の河北省保定市涿州市・高碑店市)を差し出すこと。もう一つが、もとは秦の将軍で、政が提案した軍の少数精鋭化に対し諫めたために政の怒りに触れ一族を処刑され、燕へ逃亡してきていた樊於期(はん おき)の首を差し出すこと。 これをすれば政も喜んで荊軻に会うだろうと丹に提案するが、丹は領地割譲はともかく、自分たちを頼って逃げてきた人間を殺すことはできないと断った。彼の苦悩をおもんぱかった荊軻は直接、樊於期に会い「褒美のかかっているあなたの首を手土産に、私が秦王にうまく近づき殺すことができたならば、きっと無念も恥もそそぐことができるでしょう」と頼んだところ、樊於期は復讐のためにこれを承知して自刎し、己の首を荊軻に与えた。 丹は暗殺に使うための鋭い匕首を天下に求め、遂に古代中国の越国にいた伝説的な刀匠の徐夫人の匕首を百金を出して手に入れた。この匕首に毒で焼きを入れさせ死刑囚で試し斬りを行なったところ、斬られて死なぬ者はいなかった。
※この「刺客として」の解説は、「荊軻」の解説の一部です。
「刺客として」を含む「荊軻」の記事については、「荊軻」の概要を参照ください。
- 刺客としてのページへのリンク