白川資長とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 白川資長の意味・解説 

白川資長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/30 10:52 UTC 版)

白川資長

白川 資長(しらかわ すけなが、1871年2月17日明治3年12月28日[1]〉 - 1959年昭和34年〉6月9日[1][2])は、大正から昭和期の政治家華族貴族院子爵議員

経歴

神祇大副白川資訓の長男として生まれる[1][3]1906年(明治39年)12月24日、父の死去に伴い子爵を襲爵した[4]1905年(明治38年)[注 1]東京外国語学校仏語科を卒業し、さらに東京帝国大学文科大学を修了した[2][3][5]

1914年(大正3年)以降、名誉掌典、神社調査会委員、神社制度調査会委員などを務めた[2][3][5]。また、日本精神研修会長となり、息吹長世の行法を指導した[5]

1918年(大正7年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され[6][7]研究会に所属して活動し1939年(昭和14年)7月9月まで在任した[2]

戦後は神社本庁参与を務めた[5]。子女に恵まれず、養子縁組も1954年に解消したため[1]、彼の死と共に白川伯王家は断絶した。

栄典

親族

  • 父:白川資訓(1841 - 1906)- 旧名・資訓王。大掌典
  • 母:白川幾子(1848 - 1906)- 三条西季知の五女[1]
  • 妻:リウ(1893 - 1979)- 飯野盛容の娘。
  • 養子
    • 男子:上野久雄(1927 - ?)- 上野正雄の四男。養子になり白川姓を名乗るものの、1954年白川家を離籍し、上野家に復籍した[1]

脚注

注釈

  1. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』45頁では、明治36年(1903年)。

出典

  1. ^ a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成』上巻, p. 763.
  2. ^ a b c d 『貴族院・参議院議員名鑑』, p. 45.
  3. ^ a b c 『人事興信録』, p. シ109.
  4. ^ 『官報』第7048号、明治39年12月25日。
  5. ^ a b c d 『神道人名辞典』, p. 467.
  6. ^ 『貴族院要覧(丙)』, p. 26.
  7. ^ 『官報』第1788号、大正7年7月18日。
  8. ^ 『官報』第3972号「叙任及辞令」1896年9月23日。
  9. ^ 『官報』第343号「叙任及辞令」1928年2月22日。

参考文献

  • 『人事興信録:下巻』第14版、人事興信所編、人事興信所、1943年。 
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。 
  • 『神道人名辞典』神社新報社編、神社新報社、1986年。 
  • 『議会制度百年史:貴族院・参議院議員名鑑』衆議院参議院編、大蔵省印刷局、1990年。 
  • 平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館編、吉川弘文館、1996年。 
日本の爵位
先代
白川資訓
子爵
白川家第2代
1906年 - 1947年
次代
華族制度廃止



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「白川資長」の関連用語

白川資長のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



白川資長のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの白川資長 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS