仏門(ぶつもん)に入(い)・る
仏門に入る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)
正応3年(1290年)、数え13歳のとき、播磨国法華山において、真言律宗の巌智律師という僧に入室し(=弟子となり)、慶尊のもと得度した(=剃髪して出家した)(『瑜伽伝灯鈔』)。ただ、慶尊のもとでは、まだ形同沙弥(ぎょうどうしゃみ、形式上は剃髪したが、まだ「十戒」というものを受けておらず、正式ではない僧侶)という見習い身分だったともみられる。この法華山というのは、兵庫県加西市にある天台宗の古刹一乗寺の山号(称号)でもあるが、内田啓一は、この場合は物理的に一乗寺がある山の名前ではないかとし、文観はその山内にある真言律宗の律院(寺)に入ったのではないかという。 真言律宗というのは、鎌倉時代、西大寺(大和国奈良(奈良県奈良市))の「興正菩薩」叡尊(えいそん、建仁元年(1201年) - 正応3年(1290年))によって開かれた仏教の一宗派である。真言宗とは別の宗派であるが、叡尊自身も含めて真言律宗の多くの僧は真言密教を奉じ真言宗の僧も兼帯していたので、全くの無関係という訳ではなく、真言宗の一派・分派と見なすことも可能である。叡尊の活動は多岐に渡るが、1. 仏教界の堕落に対処するため、戒律(仏教における規律・規範)を重視して復興を図ったこと(律宗)、2. 釈迦・文殊菩薩・舎利(しゃり、釈迦の遺骨)への信仰を重視し、荒廃した寺院を復興し、様々な仏像を作成させたこと、3. 大衆との関わりを重視し、貧民救済などの慈善事業を活発に行ったこと(忍性も参照)、4. 密教僧として、鎌倉時代を代表する密教美術の制作を多く指揮・監修したこと、等々の4つの点が特に重大な活動として挙げられる。これらの活動は別個にあるものではなく、全てが補完して叡尊という人間を形跡している。本項目の文観もまた、宗祖の叡尊と同じく多分野で活躍した人で、それぞれの分野での活動・業績が別個に独立してあるのではなく、相互補完の関係にある。 文観の最初期の師の一人である慶尊という人物は、叡尊の直弟子の一人で、弘安3年(1280年)ごろには観性房慶尊として西大寺で活動していたとみられる(仏師善春作『木造叡尊坐像』像内納入品「授菩薩戒弟子交名」)。正確な時期は不明だが、その後、慶尊は生国の播磨国(兵庫県)に戻り、法華山を拠点にして布教活動を行っていたと考えられる。 やや話を遡ると、法華山と叡尊の関わりは、弘安6年(1283年)ごろから始まる(『感身学正記』弘安8年(1285年)7月23日条)。この頃から、法華山は「殺生禁断」の起請文(きしょうもん、神仏へ誓う文)を掲げて叡尊の訪問を要望し、宿老4、5人が西大寺を訪ねること7回に及んだ。そこで弘安7年(1284年)冬、叡尊は僧侶の評定を開いたのち、法華山への訪問を決定し、弘安8年(1285年)春には伺うと約束していた。ところが、叡尊は、幕府・朝廷双方から四天王寺別当という仏教界の重職に就くことを要請されており、さすがに勅命を断ることはできず、結局、弘安8年(1285年)春は四天王寺で活動を行うことになった。そして、遅ればせながら同年7月23日、大和国(奈良県)の西大寺を発ち、28日に播磨国(兵庫県)の法華山に到着した。それから様々な仏教活動が行われ、8月7日には、叡尊は2,124人もの人に菩薩戒(出家・在家を問わず守るべき基礎的な規律)を授けた。 このように、法華山と叡尊は一定の関わりがある間柄だった。だが、その叡尊という鎌倉仏教史を代表する巨人は、文観が仏門に入ったまさにその年の、正応3年8月25日(1290年9月29日)に入滅した。10年後、叡尊は後伏見天皇から「興正菩薩」の諡号を贈られた(『続史愚抄』巻第11)。
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