下津俸庵とは? わかりやすく解説

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下津俸庵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/05 05:48 UTC 版)

 
下津俸庵
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 元亀元年(1570年
死没 寛永8年5月19日1631年6月18日
別名 久我祖秀、下津宗秀、通称:将監、棒庵
戒名 智性院捧庵大居士[1]
墓所 流長院(熊本市[1]
主君 加藤清正
氏族 久我家→下津氏
父母 父:久我通堅
兄弟 久我敦通俸庵
久我俊子(六条有広室→新大納言局)
飛鳥井雅綱の娘[1]
宗正、亀谷通尹、東久世通廉?、織田信良正室
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下津 俸庵(しもづ ぼうあん)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士加藤清正の家臣。

略歴

元亀元年(1570年)、久我通堅の三男として誕生。もとは鹿苑寺の住職であったが武芸を好み、還俗して下津俸庵と称した。

肥後国熊本城主の加藤清正に仕え、3,000石を与えられる。江戸時代初期の加藤家の御家騒動牛方馬方騒動」は俸庵が幕府に訴え出たことから露見した。熊本城の北大手門に続く坂の下に屋敷を構えたことから、この坂は俸庵坂と呼ばれている。

寛永8年(1631年)5月19日、死去。享年62。

長男宗正は、加藤家改易後に熊本城主となった細川氏に仕えた。次男亀谷通尹、三男東久世通廉(異説もある)は朝廷に出仕した。また、織田信雄の子で上野国小幡藩を立藩した織田信良正室となった娘がある。

脚注

  1. ^ a b c 幕末維新史料叢書 第3 (維新前後)』新人物往来社、1969年、6,10頁。doi:10.11501/2992785https://dl.ndl.go.jp/pid/2992785/1/9 



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