飛鳥井雅綱とは? わかりやすく解説

飛鳥井雅綱

読み方あすかい まさつな

室町後期公卿歌人蹴鞠家。雅縁の長男。名は雅氏・雅清。従一位権大納言に至る。和歌蹴鞠能くし、武家伝奏務めた永禄6年(1563)歿、75才。

飛鳥井雅綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/05 08:01 UTC 版)

 
飛鳥井 雅綱
時代 戦国時代
生誕 長享3年(1489年
死没 元亀2年(1571年
改名 雅綱→高雅(号)
別名 雅氏、雅清
官位 従一位権大納言
主君 後奈良天皇
氏族 飛鳥井家
父母 父:飛鳥井雅俊、母:八幡検校生清法印の娘
兄弟 雅綱、行雅
丹波親康の娘
覚澄、喜雲、雅春尭慧、宗禎、遠山、水本、雅厳、重茂、経範室、
朽木晴綱正室、目々典侍、女子
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飛鳥井 雅綱(あすかい まさつな)は、戦国時代公卿飛鳥井雅俊の子。官位従一位権大納言飛鳥井家10代当主。

経歴

明応4年(1495年)、7歳で叙爵し、大永4年(1524年)2月に従三位となった[1]天文7年(1538年)に権大納言に任じられ、武家伝奏も務めた[2]

和歌蹴鞠の宗家[2]で、大永5年(1525年)に伊勢伊豆千代丸(後の北条氏康[注釈 1]に蹴鞠作法を伝授し[1]天文2年(1533年)7月、織田信秀に請われて尾張国へ蹴鞠の伝授に出かけ、勝幡城清州城で蹴鞠会を開催し、多くを門弟にした(『言継卿記』)[4][5]。天文18年(1549年)に再び北条氏康を訪問して息子の西堂丸(後の氏親)・松千代丸(後の氏政)に蹴鞠作法を伝授している[1]

永禄5年(1562年)に従一位に叙せられ[2]、翌永禄6年(1563年)8月21日に出家した[1]

系譜

脚注

注釈

  1. ^ 小田原伊勢氏が北条氏と改姓したのは大永3年(1523年)と推定されているが、この時期には当主の北条氏綱のみが「北条」を称しており、伊豆千代丸は元服したのを機に「北条」と称したとみられている[3]

出典

  1. ^ a b c d 『戦国人名辞典』「飛鳥井雅綱」
  2. ^ a b c 『戦国人名辞典』「飛鳥井雅綱」
  3. ^ 黒田基樹「〈今代天下無双の覇主〉五十七年の生涯」『北条氏康とその時代』〈シリーズ・戦国大名の新研究 2〉(戎光祥出版、2021年) ISBN 978-4-86403-391-6 P9.
  4. ^ 小和田哲男「2 織田信秀」『織田家の人びと』河出書房新社、1991年、21-30頁。 
  5. ^ 谷口克広『天下人の父・織田信秀 信長は何を学び、受け継いだのか』〈祥伝社新書〉2017年、43-50頁。 

参考文献




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