久世通式とは? わかりやすく解説

久世通式

江戸初期公家久世家祖。一字名は之・従。久我敦通次男仕えて従四位右少将に至る。その筆跡は『慶安手鑑』にみられる寛永5年(1628)歿、36才。

久世通式

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/02 04:16 UTC 版)

 
久世通式
時代 江戸時代前期
生誕 文禄2年(1593年
死没 寛永5年5月1日1628年6月2日
氏族 久世家
父母 父:久我敦通
兄弟 久我通世久我通前通式、女子
正室:福姫細川忠隆の三女)
通俊
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久世 通式(くぜ みちのり)は、江戸時代前期の公家権大納言久我敦通の子。久世通武と誤写されている文書も多い。

経歴

久我家19代・敦通の次男通式を初代とする京都久世家村上源氏の流れを組む羽林家公家である[1]。久我家から分岐した公家諸家としては、久世家の他に中院六条岩倉千種東久世梅渓愛宕植松の8家がある。

通式が久我家から分家して久世家を興した時期は明確でないが、通式は元和5年(1619年)10月に所領として山城国乙訓郡下久世村において二百石を新知されている。

通式が肥後藩細川忠興の長男細川忠隆(廃嫡後は長岡休無)の三女福姫(1609年-1635年)を正室にした由縁で、福姫死後も助成米が細川家から送られている。また細川忠隆死去にあたりその遺志として、子の通俊に助成米として年百石が贈られるようになった。

久世通式以後は、通式-通俊-通音と続き、現在まで22代続く。代々近衛府の役に任じられ、通夏以後はいずれも権大納言に昇進。明治後に子爵[1]

膨大な山城国京都久世家文書が明治大学などに残され、国文学研究資料館などで研究されている。

系譜

  • 父:久我敦通(1565-1625)
  • 母:不詳
  • 正室:福姫 - 細川忠隆の三女
  • 生母不明の子女
    • 男子:久世通俊

脚注

  1. ^ a b 山城国京都久世家文書”. base5.nijl.ac.jp. 国文学研究資料館. 2024年10月20日閲覧。

関連項目

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