平氏政権
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平氏政権(へいしせいけん、旧字体:平󠄁氏政權)は、平安時代末期(1160年代 - 1185年)における日本の武家政権。創始者平清盛を中心とする伊勢平氏#正盛流(平家)による政権であった。
注釈
- ^ 同宣旨については、『兵範記』仁安2年5月10日条に載せられているため、同日付の「六条天皇宣旨」と解されているが、実態は後白河上皇の院宣に基づいて発給されたものであった[1]。
- ^ 宇多の遺誡とは、寛平御遺誡にある、「外蕃之人必可召見者。在㆓簾中見之。不可直對耳。李環朕已失之。(異国の者と会う時に直接会ってはならず、必ず御簾の中から見るようにしなさい。直接会話してはならない。李環と会ったことは朕の誤りであった)」を指す。ただし、平安時代後期以降には宇多の子である醍醐天皇が、高麗の占い師を宮中に入れて占わせたという話が広まっており、『古事談』ではこの際に醍醐天皇の声が小さいことを国情に合うと評されたという逸話とされている。このため宇多の遺誡は宮中に外国人を入れること自体を禁じたものとされていた[2]
- ^ しかし、実際には少なくとも治承3年以前における平氏の権力は後白河との強い関係の下で行使されたものが大半であり、その段階において清盛及び平氏一門が独裁的権力を有していたという具体的な事実は存在していない。
出典
- ^ 西田友広『鎌倉幕府の検断と国制』吉川弘文館、2011年、P211
- ^ 藪本勝治「平家物語の延喜帝像 : 「昔」の理想化と諸行無常」『国文学研究ノート』第41巻、神戸大学「研究ノート」の会、14-15頁、doi:10.24546/81012371、ISSN 03858189。
- ^ 岩田慎平「武家政権について」元木泰雄 編『日本中世の政治と制度』(吉川弘文館、2020年) ISBN 978-4-642-02966-7 P316-330.
- ^ 例えば、五味文彦「平氏軍制の諸段階」(『史学雑誌』第88編第8号、史学会、1979年)などを参照。
- ^ 榎本淳一「唐代の朝貢と貿易」(初出:『古代文化』第50巻第9号(1998年)/所収:榎本『唐王朝と古代日本』(吉川弘文館、2008年)
- ^ 元木泰雄「平重盛論」(朧谷壽・山中章 編『平安京とその時代』(思文閣出版、2009年 ISBN 978-4-7842-1497-6)所収
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