意義と評価とは? わかりやすく解説

意義と評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 08:32 UTC 版)

平氏政権」の記事における「意義と評価」の解説

平氏政権は、今日では日本史上初の武家政権考えられている。 『平家物語』『愚管抄』など同時代の文献は、平氏滅亡後平氏政権抑圧されてきた貴族社会寺社層の視点描かれてきたものが多い。従って、後白河法皇自己の政権維持のために平氏利用して、高い官職与え知行国を増やさせてきたという経緯当時の社会問題対す貴族社会の対応能力無さという点には触れず清盛平氏一門がいかに専横振るい、「驕れる者」であったかを強調している。そのため、以後歴史書もこの歴史観引きずられる形で「平氏政権観」を形成していった。 こうした背景受けて以前学界では、平氏政権貴族社会の中で形成されたことに着目して武家政権というよりも貴族政として認識されていた。貴族社会官職依存していること、院政連携して政策推進行っていたこと、などがその理由である。そのため、平氏政権は、武士出自しながら旧来の支配勢力同質化してしまったと批判されたのに対し在地領主層 = 武士階級から構成される鎌倉幕府は、旧来の支配階級打倒し画期的革新的な存在だとして、階級闘争史観などにより高く評価されていた。こうした歴史像に基づく記述が、21世紀初頭まで一部辞書など残存していた。 しかし、1970年代 - 1980年代頃から、史料に基づく実証的な研究進んでいくと、平氏政権鎌倉幕府先立って武家政権的な性格呈していたことが判明するようになった史料によれば平氏政権支配地域勢力武士として系列化し、知行国荘園国守護人地頭などといった従来あまり見られなかった職を置いて、半軍事的な支配進めた関係史料少ないため、平氏政権における国守護人地頭設置とそれに伴う支配深化どれほど進んでいたかは、必ずしも明らかとなっていないが、学界では、これら国守護人地頭は、後の鎌倉幕府における守護・地頭先駆的な存在だと考えるようになっている。また治承5年1181年)に設置した畿内惣官職や諸道鎮撫使は、これもその職能詳細不明な点もあるが、数か国にわたる広い領域軍事的に直轄支配するものと見られており、特に畿内惣官職は征夷大将軍同様の性格見出しうるとする見解もある。このように平氏政権従来貴族政異なり武力大きな基盤有していたことが明らかとなり、学界で日本最初武家政権とするのが通説となっている。そのため、元暦2年1185年滅亡することがなければ平清盛政権鎌倉幕府とはまた違った西国中心とした独自の武家政権成長したではないかとの可能性指摘されている。 また、武士の起源在地領主層に求め従来歴史学会の見解も、1970年代以降研究では軍事貴族層を武士の起源とする新たな見方生まれている。そういった見解からは、平氏元より貴族であり、旧来の支配勢力同質化したではなく旧来の支配層の中から軍事貴族たる平氏台頭したと言えるのであるまた、日宋貿易支えられ平氏政権10世紀朝鮮半島張保皐弓裔甄萱王建らと比較し唐王朝滅亡と私貿易拡大によってもたらされ政治・社会変動が、旧来の出入国貿易統制(公式の使者以外の往来禁止制限する渡海制」)がある程度維持され日本では地理的条件商工業の遅れもあって2世紀以上遅れて到達し平氏政権の成立もたらしたとする見方もある。 平氏政権清盛という一個人大きく依存しており、清盛の死から数年のうちに瓦解至ったまた、前述したように、後白河との良好な関係に依存するところも大きかった院政期律令制代わり、院を頂点とした主従制的関係が形成され官職土地恩給として臣下与えて奉仕させるようになり、知行国荘園制度確立していった時期だった。保元の乱摂関家事実上壊滅し平治の乱源義朝などの有力武士が淘汰されると、平氏勢力は他より突出することになった治承三年の政変により平氏政権完成されたかに見えたが、それは平氏反対勢力全面衝突もたらした平氏軍制欠陥は、直属部隊伊勢伊賀重代相伝家人や「私郎従」と呼ばれる諸国特定武士だけで、兵の大部分公権力発動によって動員する形態を採っていたことにある。都落ちして平氏追討宣旨下された時点で、平氏に従う兵は僅かになっていた。安徳天皇擁していてもその即位クーデターよるものであり、平氏自己の立場正当化することは困難だった。更に清盛出家隠退の後、後継者である重盛の下に一部重代相伝家人が集まるようになり、重盛平氏政権基盤強化のために源氏影響力が強い東国武士郎従化に努めていたが、鹿ケ谷の陰謀後の重盛没落急死、それに伴う宗盛への嫡流交替はこうした重盛傘下兵力平氏軍制中枢から排除することとなり、弱体化した軍制再構築終えないうちに源頼朝の挙兵迎え結果となった

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意義と評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/05 05:17 UTC 版)

三国史節要」の記事における「意義と評価」の解説

三国史節要』は、檀君朝鮮より三国時代末まで朝鮮の歴史編年体叙述して民族史体系定めた歴史書であって世宗世祖時の歴史学学風に従って客観的に叙述して朝鮮時代三国叙述基本になったという点と、『三国史記』に利用されない資料補完した点などが重要な意味を持つ。特に、『殊異伝』は今日伝わらないために、これに引用され資料貴重な価値備える。のみならず、現伝する『三国史記』の古版本中、完帙を備えたものとして、最も古いものは1512年中宗7年慶州木版刷ったのであるが、この版本には多く誤字がある。ところが、『三国史節要』で引用した資料は、高麗時代、でなければ朝鮮太祖初年刷った版本大本利用したのであるので、『三国史記』の誤字正すのに大変貴重な手引きになっているなおかつ引き続いて編纂され、1485年刊行された『東国通鑑編纂において、古代史大本として利用され意義が特に注目に値するまた、この本の史学史価値は、性理学名分論対す執着が『三国史略』より薄らぎ中国韓国との古代文化幅広く受容しており、新羅中心三国史観克服し古記類の使用既存正史から漏らされ部分補完することができたという点である。1482年刊行され全州史庫保管されそのあと筆写されて伝えられ1973年亜細亜文化社から影印した。 ただし、全体的に三国史記』に関連したものを主としており、檀君神話言及せず、仏教記事省略したのは限界として指摘される史論は『三国史記』と『三国史略』のものを利用したものの、大部分性理学名分論立脚して古代文化批判したものであった

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