意義と評価
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平氏政権は、今日では日本史上初の武家政権と考えられている。 『平家物語』や『愚管抄』など同時代の文献は、平氏滅亡後に平氏政権に抑圧されてきた貴族社会や寺社層の視点で描かれてきたものが多い。従って、後白河法皇が自己の政権維持のために平氏を利用して、高い官職を与え知行国を増やさせてきたという経緯や当時の社会問題に対する貴族社会の対応能力の無さという点には触れず、清盛と平氏一門がいかに専横を振るい、「驕れる者」であったかを強調している。そのため、以後の歴史書もこの歴史観に引きずられる形で「平氏政権観」を形成していった。 こうした背景を受けて以前の学界では、平氏政権が貴族社会の中で形成されたことに着目して、武家政権というよりも貴族政権として認識されていた。貴族社会の官職に依存していること、院政と連携して政策推進を行っていたこと、などがその理由である。そのため、平氏政権は、武士に出自しながら旧来の支配勢力と同質化してしまったと批判されたのに対し、在地領主層 = 武士階級から構成される鎌倉幕府は、旧来の支配階級を打倒した画期的・革新的な存在だとして、階級闘争史観などにより高く評価されていた。こうした歴史像に基づく記述が、21世紀初頭まで一部の辞書などに残存していた。 しかし、1970年代 - 1980年代頃から、史料に基づく実証的な研究が進んでいくと、平氏政権も鎌倉幕府に先立って武家政権的な性格を呈していたことが判明するようになった。史料によれば、平氏政権は支配地域の勢力を武士として系列化し、知行国・荘園に国守護人・地頭などといった従来あまり見られなかった職を置いて、半軍事的な支配を進めた。関係史料が少ないため、平氏政権における国守護人・地頭の設置とそれに伴う支配の深化がどれほど進んでいたかは、必ずしも明らかとなっていないが、学界では、これら国守護人・地頭は、後の鎌倉幕府における守護・地頭の先駆的な存在だと考えるようになっている。また治承5年(1181年)に設置した畿内惣官職や諸道鎮撫使は、これもその職能の詳細は不明な点もあるが、数か国にわたる広い領域を軍事的に直轄支配するものと見られており、特に畿内惣官職は征夷大将軍と同様の性格を見出しうるとする見解もある。このように、平氏政権は従来の貴族政権と異なり、武力に大きな基盤を有していたことが明らかとなり、学界では日本最初の武家政権とするのが通説となっている。そのため、元暦2年(1185年)滅亡することがなければ、平清盛の政権は鎌倉幕府とはまた違った、西国を中心とした独自の武家政権へ成長したのではないかとの可能性も指摘されている。 また、武士の起源を在地領主層に求める従来の歴史学会の見解も、1970年代以降の研究では軍事貴族層を武士の起源とする新たな見方が生まれている。そういった見解からは、平氏は元より貴族であり、旧来の支配勢力と同質化した訳ではなく、旧来の支配層の中から軍事貴族たる平氏が台頭したと言えるのである。 また、日宋貿易に支えられた平氏政権を10世紀朝鮮半島の張保皐・弓裔・甄萱・王建らと比較し、唐王朝の滅亡と私貿易の拡大によってもたらされた政治・社会の変動が、旧来の出入国・貿易統制(公式の使者以外の往来を禁止・制限する「渡海制」)がある程度維持された日本では、地理的条件と商工業の遅れもあって2世紀以上遅れて到達し、平氏政権の成立をもたらしたとする見方もある。 平氏政権は清盛という一個人に大きく依存しており、清盛の死から数年のうちに瓦解に至った。また、前述したように、後白河との良好な関係に依存するところも大きかった。院政期は律令制に代わり、院を頂点とした主従制的関係が形成され、官職や土地を恩給として臣下に与えて奉仕させるようになり、知行国・荘園制度が確立していった時期だった。保元の乱で摂関家が事実上壊滅し、平治の乱で源義朝などの有力武士が淘汰されると、平氏の勢力は他より突出することになった。 治承三年の政変により平氏政権は完成されたかに見えたが、それは平氏と反対勢力の全面衝突をもたらした。平氏の軍制の欠陥は、直属部隊が伊勢・伊賀の重代相伝の家人や「私郎従」と呼ばれる諸国の特定武士だけで、兵の大部分を公権力の発動によって動員する形態を採っていたことにある。都落ちして平氏追討宣旨が下された時点で、平氏に従う兵は僅かになっていた。安徳天皇を擁していてもその即位はクーデターによるものであり、平氏が自己の立場を正当化することは困難だった。更に清盛が出家・隠退の後、後継者である重盛の下に一部の重代相伝の家人が集まるようになり、重盛も平氏政権の基盤強化のために源氏の影響力が強い東国武士の郎従化に努めていたが、鹿ケ谷の陰謀後の重盛の没落と急死、それに伴う宗盛への嫡流の交替はこうした重盛傘下の兵力を平氏の軍制の中枢から排除することとなり、弱体化した軍制の再構築を終えないうちに源頼朝の挙兵を迎える結果となった。
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意義と評価
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『三国史節要』は、檀君朝鮮より三国時代末まで朝鮮の歴史を編年体で叙述して民族史の体系を定めた歴史書であって、世宗と世祖の時の歴史学の学風に従って客観的に叙述して朝鮮時代の三国史叙述の基本枠になったという点と、『三国史記』に利用されない資料を補完した点などが重要な意味を持つ。特に、『殊異伝』は今日伝わらないために、これに引用された資料は貴重な価値を備える。のみならず、現伝する『三国史記』の古版本中、完帙を備えたものとして、最も古いものは1512年(中宗7年)慶州で木版で刷ったものであるが、この版本には多くの誤字がある。ところが、『三国史節要』で引用した資料は、高麗時代、でなければ朝鮮太祖初年に刷った版本を大本に利用したものであるので、『三国史記』の誤字を正すのに大変貴重な手引きになっている。なおかつ、引き続いて編纂され、1485年に刊行された『東国通鑑』編纂において、古代史の大本として利用された意義が特に注目に値する。 また、この本の史学史的価値は、性理学的名分論に対する執着が『三国史略』より薄らぎ、中国と韓国との古代文化を幅広く受容しており、新羅中心の三国史観を克服し、古記類の使用で既存の正史から漏らされた部分を補完することができたという点である。1482年に刊行されて全州史庫に保管され、そのあと筆写されて伝えられ、1973年に亜細亜文化社から影印した。 ただし、全体的に『三国史記』に関連したものを主としており、檀君神話に言及せず、仏教記事を省略したのは限界として指摘される。史論は『三国史記』と『三国史略』のものを利用したものの、大部分は性理学的名分論に立脚して古代文化を批判したものであった。
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