歴史像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 00:58 UTC 版)
ナチスのプロパガンダはプロイセンの歴史を意図的にナチズムに取り込もうとした。ポツダムの日は、特に国外に向けてはその目的に合致するものであった。ゼバスティアン・ハフナー(ドイツ語版)といった歴史家やジャーナリストは、この数十年、世間に流布するプロイセン国家のイメージの変革を試みてきた。例えば、プロイセンの本質は、伝統的に法治国家であったが、これをヒトラーは「政権獲得」で破壊したのである。ハインリヒ・アウグスト・ヴィンクラー(ドイツ語版)はポツダムの日の幻想について書いている。 ヒンデンブルク大統領が衛戍教会でフリードリヒ大王と無言の会話を交わすべく、独り棺がある地下墓所に降りていったとき、多くのドイツ人の愛国的な琴線に触れたが、これはアルフレート・フーゲンベルクの「ウーファ」のフリデリクス・レックス映画(ドイツ語版)が呼び起こしてきたものであった。しかし1933年3月21日は、かつてのプロイセンが復活したのではなかった。新たな支配者は、ただその神話を利用したに過ぎなかった。自らの支配に、1933年3月5日に有権者によって選ばれた者たちよりも、高次の正当性という装いを与えるために。
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