DIPSの意義と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/03 22:43 UTC 版)
「DIPS (コンピュータ)」の記事における「DIPSの意義と評価」の解説
DIPS開発に投じられた補助金は、DIPS-1で400億円、DIPS-11で400億円、DIPS-11/5で500億円に上った。これには試作機製作の発注に対する対価の側面もあるが、巨額であったことは否定できない。電電公社はコンピュータ調達の条件としてDIPSアーキテクチャを指定することで海外メーカーを締め出しており、日米貿易摩擦の重要な争点のひとつともなった。結果として電電市場は1981年に完全開放されることを約束された。 電電公社自体もDIPS開発を中心とした日本のコンピュータ産業育成努力により、1980年代初頭には巨額の赤字を抱えることになった。このため、公社自身は1985年に民営化され、データ通信本部は1988年に分離されNTTデータとなった。 一方、アーキテクチャ的にはDIPSには特に画期的といえる面はない。しかし、電子交換機並みの信頼性を達成する努力によって日本のコンピュータ産業の品質向上が図られたことは重要である。また、厳しい納期管理が各社の技術者を鍛え、ソフトウェア工学的な管理手法を各社に植えつけた。たとえば、DIPS-1試作機の納期は1971年3月だったが、富士通と日立は3ヶ月延長して完成し、日本電気に至っては9月まで伸びたという。また、基盤技術(LSIの集積度など)での目標設定も適切で、メーカー各社が独自に開発していたらもっと保守的なスケジュールになっていただろうと言われている。 3社は自社製品とDIPSの2本立てで開発しなければならないという問題も抱えた。このため一時期、日立を中心としてIBM互換路線を主張して公社側と対立しそうになったこともある。しかし、これも技術の進歩によって徐々に2本立ても苦にならなくなってきたという。 1991年末時点で、DIPSシリーズを使用したシステムは150、台数にして1200台が稼働中だった。
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