佐伯景弘とは? わかりやすく解説

佐伯景弘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/01 09:56 UTC 版)

佐伯 景弘(さえき の かげひろ、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての人物。佐伯頼信の子[1]厳島神社の神主。

生涯

佐伯氏(佐伯直・佐伯朝臣)は厳島神社社家で、父・頼信も神主を務めた[1]

平清盛に接近し、その家人として活躍する。長寛2年(1164年)、景弘が史料に初見される時には、既に清盛と密接な関係にあった。景弘は、衰微していた厳島神社の興隆を目的に、早くから清盛に接近していたという。さらに久安2年(1146年)2月2日、清盛は安芸守に任命されており、それが契機となって両者の関係はより緊密となった。清盛の厳島神社への信仰は厚く、積極的な支援を行い社殿の修繕に寄与した。

景弘は社の郷司地頭となって神宮の経営に関与し、清盛から平氏姓を名乗ることを許され、平氏の軍勢に従軍、源氏との戦いでは一貫して平氏を支持した。寿永元年(1182年)3月には在国のまま安芸守に補任された[2]。平家方:寿永4年 / 源氏方:元暦2年(1185年)、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡したが[注 1]、景弘は新たに台頭した源頼朝に接近し、その後も神主の役職にあった。文治4年(1188年)には頼朝に命ぜられて壇ノ浦で安徳天皇と共に海中に沈んだ宝剣の捜索を行った。

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脚注

注釈

  1. ^ 『源平盛衰記』で降人とされているが、壇ノ浦では平家方として参戦せず、それ以前に投降していると推測できる[3]

出典

  1. ^ a b 太田亮『姓氏家系大辞典』
  2. ^ 田中文英「平氏政権の国衙支配 : 安芸国のばあい」『女子大文学. 国文篇』第26巻、大阪女子大学国文学科、1975年2月、21-43頁、doi:10.24729/00011126hdl:10466/10545ISSN 0286-9268NAID 120002276562 
  3. ^ 光成準冶「壇ノ浦合戦における佐伯景弘」『歴史を歩く時代を歩く : 服部英雄退職記念誌 : とことん服部英雄』、九州大学大学院比較社会文化研究院服部英雄研究室、2015年、56-64頁、doi:10.15017/1508400hdl:2324/1508400 

参考文献

関連項目





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