人物・評価・逸話とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 人物・評価・逸話の意味・解説 

人物・評価・逸話

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 15:17 UTC 版)

足利義昭」の記事における「人物・評価・逸話」の解説

兄・義輝死後幕臣守られながら流浪したり、信長追放されて諸国流浪したりして諸大名頼った経緯から、「貧乏公方」と噂されといわれる義昭室町幕府歴代将軍の中では、享年61歳と最も長命な人物である。また、病気を苦にして自害したといわれる父・義晴反逆によって殺害された兄・義輝違い天寿を全うすることができた。 『朝倉御成記』には、義昭美味なるものとしてカズノコ食べていたという記録残っている。 義昭二条御所竣工したのち、門前割れた貝が9つ並べおかれていた。これは義昭心から、「くかい(9つの貝=公界表向きのこと)が欠けている」、と京童笑ってしたものと囁かれた。義昭自分御所信長建ててもらうほど、将軍として表向きは何もできないということ意味するのである義昭は自らが将軍就任した際より、元号を「元亀」と改元するべく朝廷奏請しており、信長朝倉氏討伐出陣した直後、その改元朝廷実行させている。元亀3年1572年3月朝廷が「元亀」からの改元決定した際、改元発議知らせ使者信長義昭元に派遣されたが(『御湯殿上日記元亀3年3月29日)、4月義昭改元費用献上拒んだ(『御湯殿上日記元亀3年4月20日条)。また、義昭室町幕府歴代将軍が行っていた禁裏御所修繕も行なわなかった。このため朝廷では義昭への非難高まり吉田兼見は「大樹将軍所業之事、禁裏其外沙汰如何公義公儀)・万民中々無是非次第之間申也」(『兼見卿記』元亀4年4月1日条)と、義昭評判悪さ記している。信長元亀3年秋に義昭出した異見十七ヶ条において、義輝時代比較して幕府朝廷への態度不誠実であるとして、改元禁裏修繕の件を例に挙げて非難しており、義昭追放正当な根拠1つとされた。 義昭時代足利将軍家摂関家との関係に大きな変化があった。足利義晴義輝時代近衛家がその外戚存在として彼らを支持して、彼らが京都追われ時期においてもこれに随行し一方で九条家及び同系の二条家足利義維―義栄を支持して石山本願寺とも連携する構図となっていた。だが、永禄の変後、義昭従兄弟である近衛前久従前通り慣例破り近衛家血を引く義昭下向には同行せず、義栄を擁する三好三人衆接近したことによって、義昭は兄・義輝殺害への前久の関与疑い九条稙通二条晴良また、三好三人衆と義栄が近衛家支持回った疑ったその結果、稙通や晴良は義昭支援することになり、将軍家摂関家の関係に一種のねじれが生じることになった義昭信長義昭関係悪化に関して殿中御掟発端とする見方がある。この殿中御掟については近年信長単純に将軍権力制約ようとしたではなく、ほとんどの条文室町幕府規範先例出典求められるもので、信長幕府法や先例吟味した上で幕府再興理念示したものだとする説も出されている。また、5箇条承認とほぼ同じくして、信長書札礼関東管領である上杉謙信とほぼ同格になっており、信長が「准官領」(管領管領代准じるものと位置付けられ幕府官職)の就任受け入れた代わりに信長の方も義昭求めた要望結果記されたもので、信長幕府秩序体制組み込んだという意味では義昭権力基盤安定化つながったとする見解もある。義昭期の幕府機構研究していく中で、義昭信長傀儡とはいえず、室町幕府組織有効に機能しており、むしろ義昭個人将軍権力専制化や恣意的な政治判断による問題浮上し始めてたとする指摘もある。室町幕府において、将軍専制確立大名権力抑制意図する将軍とこれを抑えようとする管領ら有力大名対立これまでもたびたび発生しており、義昭信長限定された話ではない。 義昭信長関係悪化発端を、北畠氏との大河内城の戦い講和条件にあったとする見方もある。この講和背景には、義昭による調停があった。ところが、信長自分次男(後の織田信雄)を北畠氏養子押し付けるなど、義昭意向反す措置取った義昭織田氏北畠氏家格違いから、信長行為武家の家格秩序を乱すことに繋がるため容認できず、両者意見齟齬繋がった考えられるまた、義昭信長伊勢平定自体快く思っていなかったとされるこのように幕府再興念願とする義昭と、武力による天下統一狙っていた信長思惑違っていたために、両者の関係徐々に悪化していったと考えられる信長若狭越前攻めに関して朝倉義景が甥の武田元明越前連行したことに激怒した義昭命令に基づく侵攻だったとする説や、反対に浅井氏金ヶ崎での寝返り義昭意思受けてのものだったとする説があるが、この時の戦いには幕府奉公衆昵懇公家衆も参陣していることから、義昭の上意によって動員されたと考えられる。この出陣に際して信長は既に1月23日付で二十一ヶ国の諸大名上洛要請しており、出陣まで3ヶ月時間があったこととから、どの大名自分味方するか、あるいは敵になるか、判断していたと考えられるまた、3月28日朝廷御所千度祓いと石清水八幡宮での戦勝祈願行っていることから、この軍事行動主体義昭であり、信長条文基づいて軍事指揮権行使し公儀軍隊率いる形をとっていた。 義昭信長との講和破棄し槇島城において挙兵した際、京では「かぞいろと やしたひ立て甲斐もなく いたくも花を のうつ音」(信長義昭をまるで父母を扱うように養ってきた甲斐もなくはげしく花(=花の御所将軍暗示)を打つ音がすることだ)の歌が記され落首立てられた。 義昭信長によって追放されたのちも、征夷大将軍地位、および従三位権大納言位階官職保持しつづけた。『公卿補任』には、天正16年1月13日1588年2月9日)に義昭関白豊臣秀吉と共に御所参内し准三后となり、正式に征夷大将軍辞するまでその地位にあった記録されている。200年余り続いた室町幕府の中で、征夷大将軍足利家家職であり「(足利家と同じ清和源氏であったとしても)他家人間征夷大将軍就任する事はありえない」という風潮確立されており、そのため、信長義昭代わる征夷大将軍地位求めず朝廷積極的に義昭解任動き見せなかったともいわれる義昭京都から追放されとはいえ、かつて10代将軍であった足利義稙明応の政変将軍職解任された後も大内義興らによって引き続き将軍として支持受けて後に義興に奉じられて上洛して将軍職復帰したように、義昭京都復帰する可能性当時考えられていた。実際義昭追放後将軍であり続けた、と公式記録(『公卿補任』)には記されている。また、義昭将軍職としての政務続け伊勢氏高氏一色氏上野氏細川氏大館氏飯尾氏松田氏大草氏などの幕府中枢構成した奉公衆奉行衆伴い近臣大名室町幕府役職任命するなどの活動行っていた。そのため、近畿周辺信長勢力圏以外(関東北陸中国・九州奥州)では、追放前と同程度権威保ち続け、それらの地域大名からの献金期待できた。また、京都五山住持任命権足利将軍家存在したため、その任命による礼金収入存在していた。 その一方で義昭京都にいた時期奉公衆のうち、追放後同行し続けたのは2割に過ぎないとする研究もある。その原因として、義昭在京中から満足に所領与えられず(与えることができず)に困窮したり、義昭一部側近ばかりを重用したりすることに対して信長救済訴え出る奉公衆がいたことから、義昭奉公衆対す扱いへの不満があげられ、それらによって奉公衆幕府見限って信長従わせる流れ繋がった考えられている。実際所領安堵引換信長従った奉公衆奉行衆などもおり、その中には最後政所執事である伊勢貞興侍所開闔務めた経験を持つ松田頼隆、他に石谷頼辰小笠原秀清などがいた。ただし、そのほとんどがこれまでの幕府職務から離れ細川藤孝明智光秀などの麾下置かれた。これは幕臣たち所領多くが彼らの支配下置かれた事や個人的なつながり由来する考えられ京都統治担当した村井貞勝麾下置かれ名のある幕臣はおらず旧来の統治ノウハウ室町幕府から織田政権継承されることはなかった。 これまでの室町将軍動座追放の際には、それまで将軍支持して昵近」関係にあった公家随伴するのが恒例で、彼らを仲介して朝廷との関係が維持され続けていた。実際に義昭越前滞在時に未だに将軍就任していないにも関わらず、前関白二条晴良飛鳥井雅敦公家下向し、義昭追われるとなった前将軍・義栄にも水無瀬親氏最後まで従っている。義昭の父・義晴や兄・義輝近江動座した際にもまた、近衛稙家らが随伴していた。ところが、義昭京都追放においては二条御所信長抵抗した日野輝資高倉永相のような公家いたものの、彼らは最終的に信長説得応じ義昭に従って京都離れた公家久我晴通・通俊父子のみで、この父子義昭紀伊滞在中の天正3年1575年)には共に病死しているため、義昭従った公家皆無となった。これは義昭将軍就任以降5年間、元亀から新元号への改元問題を巡る朝廷との対立近衛前久出奔烏丸邸の襲撃などによって、伝統的に足利将軍家と「昵近」関係にあった公家との関係悪化悪化したことに起因している。また、天正3年11月信長右近衛大将任官すると、公家衆らに新地給付し、公家社会安定図っている。そして、朝廷では追放後義昭従来通り将軍別称である「公方」「武家」と呼んで引き続き将軍として地位認め新たに天下人となった信長に対してその呼称用いことはなかったものの、義昭側に仲介となる公家がいなかったこともあり、両者の間に関係が持たれる事は無かったこうした一連の流れは、信長によって荘園制など中世的な秩序解体されて、将軍幕府権威を必要としない支配体制構築されつつある中で、室町幕府幕臣達が義昭再上洛復権賭けるか、現実的な京都支配者である信長に従って所領安堵を図るか、判断2つ分かれたとみられる。その一方で信長側からみても幕臣義昭に従う者と信長に従う者に二分された結果政所侍所など幕府機構維持必要な人材不足して機能停止の状態に陥ったため、これらの機構依拠しない支配体制構築する方向性進み政所侍所職員だった幕臣信長の下で新たな役割与えられることで、京都における室町幕府機構は完全に解体されることになった。 京を追放されたのち、義昭側近幕臣信長打倒のため、毛利輝元大きな期待寄せた義昭8月1日付の御内書で、「毛利氏を一番頼りにしています」と記している。また、側近一色藤長書状にも、「あなた(輝元)が出陣すれば、その報を受けて五畿内平定され、すぐに私の本意遂げることは明らかです。足利将軍家再興ひとえにあなたの出陣次第です」と記されている。 鞆での生活は、備中国御料所からの年貢の他、足利将軍専権事項であった五山住持任免行使して礼銭獲得できたこと、日明貿易通して足利将軍家と関係の深かった宗氏島津氏からの支援もあり、財政的に困難な状態ではなかったといわれている。一方で征夷大将軍として一定の格式維持し、更に対信長外交工作行っていく以上、その費用決し少なくはなく、また恒常的に保証され収入少ない以上、その財政はかなり困難であったとする見方もあり、天正年間後期には真木島昭光一色昭孝唐橋在通クラス重臣ですら吉見氏山内首藤氏など毛利氏麾下国衆への「預置」(一時的に客将として与えて面倒をみさせる)の措置取っている。 毛利氏上洛踏み切らないのは、北九州大友宗麟侵攻受けているからだと考えた義昭島津氏龍造寺氏大友氏討伐命じ御内書下した島津義久はこれを大友侵攻大義名分として北上し日向伊東義祐旧領復帰させるために南下しようとしていた大友宗麟激突天正6年1578年)の耳川の戦い一因になったとする説もある。 毛利氏また、義昭のために全く動いていない訳ではなかった。天正4年1576年)に三好長治自害追い込まれ阿波三好家中が混乱すると、天正6年1578年)に毛利輝元三好義堅十河存保)を三好氏当主認めて和睦連合して織田氏対抗しようとする。義昭自身最初和睦には反対であったが、最終的に同意して真木島昭光仲介命じている。だが、織田氏結んだ土佐長宗我部元親讃岐阿波侵攻によって、計画失敗してしまった。 信長横死した本能寺の変において、足利義昭黒幕とする説があるが、以下の理由により黒幕説は成立しないとされている。6月9日明智光秀細川藤孝忠興父子宛てた覚書光秀孝にとって共通の旧主である義昭存在が全く見えないこと。義昭光秀謀反何らかの形で関わっていたとしたら、この場面で義昭引き合い出さないのは不自然で、信義尊ぶ細川父子であればなおのこと有効であったはずである。義昭存在謀反名分になっていなかったことを意味するのであるといえる信長打倒目指し行動続けていた義昭のもとに、信長自害させたという密書届けられ形跡がない。それどころ光秀周辺とのつながりを示すような材料も全く見えてこない。このことは毛利氏場合も同様である。信長の死を知らせ光秀使者秀吉陣営迷い込んで捕らえられ不手際も、義昭毛利氏本能寺の変を全く予測できなかったことの証であり、義昭黒幕として光秀操っていたのなら、あらかじめ隠密使者ルートが調えられていたに違いない吉川広家覚書案文)には、毛利氏秀吉撤退の日の翌日本能寺の変報を入手しており、秀吉との和議成ったことを理由織田軍の追撃をしなかった。この事実は、義昭事変との関わりの是非を知るうえで意義深いのである。仮に義昭黒幕として光秀通じていたならば、光秀京都抑えていた段階秀吉への追撃思いとどまることなどありえなかったであろう。むしろ、一気攻勢をかけなければいけなかったはずである。 以上のことから、義昭黒幕と見るにはかなりの困難がともない学問的に否定材料しか見当らず肯定する要素はないのが現実であるといえる天下統一実現した秀吉幕府創立目論み、義昭大名にする代わりに自分養子としてくれるようにと望んだが、これを拒絶されやむなく関白になった、という逸話が伝わる。だが、これは林羅山の説が初出であり、将軍神聖視する羅山によって捏造されたものである考えられている。 『多聞院日記』によると、天正12年16日秀吉正親町天皇から将軍任官するようにとの勅定受けていたが、これを断ったとされる秀吉信長同様に将軍への任官望んでいなかったと考えられている。なぜなら、秀吉こそが、将軍義昭庇護し毛利輝元や、義昭調略受けた諸将撃破し義昭将軍権威叩き潰した張本人だったからである。

※この「人物・評価・逸話」の解説は、「足利義昭」の解説の一部です。
「人物・評価・逸話」を含む「足利義昭」の記事については、「足利義昭」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「人物・評価・逸話」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「人物・評価・逸話」の関連用語

人物・評価・逸話のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



人物・評価・逸話のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの足利義昭 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS