人物・評価・逸話
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兄・義輝の死後、幕臣に守られながら流浪したり、信長に追放されて諸国を流浪したりして諸大名を頼った経緯から、「貧乏公方」と噂されたといわれる。 義昭は室町幕府の歴代将軍の中では、享年が61歳と最も長命な人物である。また、病気を苦にして自害したといわれる父・義晴や反逆によって殺害された兄・義輝と違い、天寿を全うすることができた。 『朝倉亭御成記』には、義昭が美味なるものとしてカズノコを食べていたという記録が残っている。 義昭の二条御所が竣工したのち、門前に割れた蛤貝が9つ並べおかれていた。これは義昭の心から、「くかい(9つの貝=公界、表向きのこと)が欠けている」、と京童が笑ってしたものと囁かれた。義昭が自分の御所を信長に建ててもらうほど、将軍として表向きは何もできない、ということを意味するものである。 義昭は自らが将軍に就任した際より、元号を「元亀」と改元するべく朝廷に奏請しており、信長が朝倉氏討伐に出陣した直後、その改元を朝廷に実行させている。元亀3年(1572年)3月に朝廷が「元亀」からの改元を決定した際、改元の発議を知らせる使者が信長と義昭の元に派遣されたが(『御湯殿上日記』元亀3年3月29日)、4月に義昭は改元費用の献上を拒んだ(『御湯殿上日記』元亀3年4月20日条)。また、義昭は室町幕府の歴代将軍が行っていた禁裏(御所)修繕も行なわなかった。このため、朝廷では義昭への非難が高まり、吉田兼見は「大樹(将軍)所業之事、禁裏其外沙汰如何、公義(公儀)・万民中々無是非次第之間申也」(『兼見卿記』元亀4年4月1日条)と、義昭の評判の悪さを記している。信長も元亀3年秋に義昭に出した異見十七ヶ条において、義輝の時代と比較して幕府の朝廷への態度が不誠実であるとして、改元や禁裏修繕の件を例に挙げて非難しており、義昭追放の正当な根拠の1つとされた。 義昭の時代、足利将軍家と摂関家との関係に大きな変化があった。足利義晴―義輝の時代、近衛家がその外戚的存在として彼らを支持して、彼らが京都を追われた時期においてもこれに随行し、一方で九条家及び同系の二条家は足利義維―義栄を支持して、石山本願寺とも連携する構図となっていた。だが、永禄の変後、義昭の従兄弟である近衛前久が従前通りの慣例を破り、近衛家の血を引く義昭の下向には同行せず、義栄を擁する三好三人衆と接近したことによって、義昭は兄・義輝殺害への前久の関与を疑い、九条稙通や二条晴良もまた、三好三人衆と義栄が近衛家支持に回ったと疑った。その結果、稙通や晴良は義昭を支援することになり、将軍家と摂関家の関係に一種のねじれが生じることになった。 義昭と信長の義昭の関係悪化に関して、殿中御掟を発端とする見方がある。この殿中御掟については近年、信長が単純に将軍権力を制約しようとしたのではなく、ほとんどの条文が室町幕府の規範や先例に出典が求められるもので、信長が幕府法や先例を吟味した上で幕府再興の理念を示したものだとする説も出されている。また、5箇条の承認とほぼ同じくして、信長の書札礼が関東管領である上杉謙信とほぼ同格になっており、信長が「准官領」(管領・管領代に准じるものと位置付けられた幕府官職)の就任を受け入れた代わりに、信長の方も義昭に求めた要望の結果が記されたもので、信長を幕府の秩序体制に組み込んだという意味では義昭の権力基盤の安定化につながったとする見解もある。義昭期の幕府機構を研究していく中で、義昭が信長の傀儡とはいえず、室町幕府の組織が有効に機能しており、むしろ義昭個人の将軍権力の専制化や恣意的な政治判断による問題が浮上し始めていたとする指摘もある。室町幕府において、将軍専制の確立と大名権力の抑制を意図する将軍とこれを抑えようとする管領ら有力大名の対立はこれまでもたびたび発生しており、義昭と信長に限定された話ではない。 義昭と信長の関係悪化の発端を、北畠氏との大河内城の戦いの講和条件にあったとする見方もある。この講和の背景には、義昭による調停があった。ところが、信長が自分の次男(後の織田信雄)を北畠氏の養子に押し付けるなど、義昭の意向に反する措置を取った。義昭は織田氏と北畠氏の家格の違いから、信長の行為が武家の家格秩序を乱すことに繋がるため容認できず、両者の意見の齟齬に繋がったと考えられる。また、義昭は信長の伊勢平定自体を快く思っていなかったとされる。このように、幕府再興を念願とする義昭と、武力による天下統一を狙っていた信長の思惑が違っていたために、両者の関係は徐々に悪化していったと考えられる。 信長の若狭・越前攻めに関して、朝倉義景が甥の武田元明を越前に連行したことに激怒した義昭の命令に基づく侵攻だったとする説や、反対に浅井氏の金ヶ崎での寝返りは義昭の意思を受けてのものだったとする説があるが、この時の戦いには幕府の奉公衆や昵懇公家衆も参陣していることから、義昭の上意によって動員されたと考えられる。この出陣に際して、信長は既に1月23日付で二十一ヶ国の諸大名に上洛を要請しており、出陣まで3ヶ月と時間があったこととから、どの大名が自分に味方するか、あるいは敵になるか、判断していたと考えられる。また、3月28日に朝廷が御所で千度祓いと石清水八幡宮での戦勝祈願を行っていることから、この軍事行動の主体は義昭であり、信長が条文に基づいて軍事指揮権を行使し、公儀の軍隊を率いる形をとっていた。 義昭が信長との講和を破棄し、槇島城において挙兵した際、京では「かぞいろと やしたひ立てし 甲斐もなく いたくも花を 雨のうつ音」(信長が義昭をまるで父母を扱うように養ってきた甲斐もなく、雨がはげしく花(=花の御所。将軍を暗示)を打つ音がすることだ)の歌が記された落首が立てられた。 義昭は信長によって追放されたのちも、征夷大将軍の地位、および従三位・権大納言の位階・官職を保持しつづけた。『公卿補任』には、天正16年1月13日(1588年2月9日)に義昭が関白・豊臣秀吉と共に御所へ参内し、准三后となり、正式に征夷大将軍を辞するまでその地位にあったと記録されている。200年余り続いた室町幕府の中で、征夷大将軍が足利家の家職であり「(足利家と同じ清和源氏であったとしても)他家の人間が征夷大将軍に就任する事はありえない」という風潮が確立されており、そのため、信長も義昭に代わる征夷大将軍の地位を求めず、朝廷も積極的に義昭の解任の動きを見せなかったともいわれる。 義昭は京都から追放されたとはいえ、かつて10代将軍であった足利義稙が明応の政変で将軍職を解任された後も大内義興らによって引き続き将軍として支持を受けて後に義興に奉じられて上洛して将軍職に復帰したように、義昭が京都に復帰する可能性も当時は考えられていた。実際、義昭は追放後も将軍であり続けた、と公式記録(『公卿補任』)には記されている。また、義昭も将軍職としての政務は続け、伊勢氏・高氏・一色氏・上野氏・細川氏・大館氏・飯尾氏・松田氏・大草氏などの幕府の中枢を構成した奉公衆や奉行衆を伴い、近臣や大名を室町幕府の役職に任命するなどの活動を行っていた。そのため、近畿周辺の信長勢力圏以外(関東・北陸・中国・九州・奥州)では、追放前と同程度の権威を保ち続け、それらの地域の大名からの献金も期待できた。また、京都五山の住持任命権も足利将軍家に存在したため、その任命による礼金収入は存在していた。 その一方で、義昭が京都にいた時期の奉公衆のうち、追放後も同行し続けたのは2割に過ぎないとする研究もある。その原因として、義昭の在京中から満足に所領が与えられず(与えることができず)に困窮したり、義昭が一部の側近ばかりを重用したりすることに対して、信長に救済を訴え出る奉公衆がいたことから、義昭の奉公衆に対する扱いへの不満があげられ、それらによって奉公衆が幕府を見限って信長に従わせる流れに繋がったと考えられている。実際、所領安堵と引換に信長に従った奉公衆や奉行衆などもおり、その中には最後の政所執事である伊勢貞興、侍所開闔を務めた経験を持つ松田頼隆、他に石谷頼辰・小笠原秀清などがいた。ただし、そのほとんどがこれまでの幕府の職務から離れ、細川藤孝や明智光秀などの麾下に置かれた。これは幕臣たち所領の多くが彼らの支配下に置かれた事や個人的なつながりに由来すると考えられ、京都の統治を担当した村井貞勝の麾下に置かれた名のある幕臣はおらず、旧来の統治のノウハウが室町幕府から織田政権に継承されることはなかった。 これまでの室町将軍の動座・追放の際には、それまで将軍を支持して「昵近」関係にあった公家が随伴するのが恒例で、彼らを仲介して朝廷との関係が維持され続けていた。実際に義昭の越前滞在時にも未だに将軍に就任していないにも関わらず、前関白の二条晴良や飛鳥井雅敦ら公家が下向し、義昭に追われる形となった前将軍・義栄にも水無瀬親氏が最後まで従っている。義昭の父・義晴や兄・義輝が近江へ動座した際にもまた、近衛稙家らが随伴していた。ところが、義昭の京都追放においては、二条御所で信長に抵抗した日野輝資や高倉永相のような公家はいたものの、彼らは最終的には信長の説得に応じ、義昭に従って京都を離れた公家は久我晴通・通俊父子のみで、この父子も義昭が紀伊に滞在中の天正3年(1575年)には共に病死しているため、義昭に従った公家は皆無となった。これは義昭の将軍就任以降の5年間、元亀から新元号への改元問題を巡る朝廷との対立や近衛前久の出奔、烏丸邸の襲撃などによって、伝統的に足利将軍家と「昵近」関係にあった公家との関係悪化が悪化したことに起因している。また、天正3年11月に信長が右近衛大将に任官すると、公家衆らに新地を給付し、公家社会の安定を図っている。そして、朝廷では追放後の義昭を従来通りの将軍の別称である「公方」「武家」と呼んで、引き続き将軍としての地位を認め、新たに天下人となった信長に対してその呼称を用いることはなかったものの、義昭側に仲介となる公家がいなかったこともあり、両者の間に関係が持たれる事は無かった。 こうした一連の流れは、信長によって荘園制など中世的な秩序が解体されて、将軍・幕府の権威を必要としない支配体制を構築されつつある中で、室町幕府の幕臣達が義昭の再上洛・復権に賭けるか、現実的な京都の支配者である信長に従って所領安堵を図るか、判断が2つに分かれたとみられる。その一方で、信長側からみても幕臣が義昭に従う者と信長に従う者に二分された結果、政所や侍所など幕府機構の維持に必要な人材が不足して機能停止の状態に陥ったため、これらの機構に依拠しない支配体制を構築する方向性に進み、政所や侍所の職員だった幕臣も信長の下で新たな役割を与えられることで、京都における室町幕府の機構は完全に解体されることになった。 京を追放されたのち、義昭や側近の幕臣は信長打倒のため、毛利輝元に大きな期待を寄せた。義昭は8月1日付の御内書で、「毛利氏を一番頼りにしています」と記している。また、側近の一色藤長の書状にも、「あなた(輝元)が出陣すれば、その報を受けて五畿内は平定され、すぐに私の本意を遂げることは明らかです。足利将軍家の再興はひとえにあなたの出陣次第です」と記されている。 鞆での生活は、備中国の御料所からの年貢の他、足利将軍の専権事項であった五山住持の任免権を行使して礼銭を獲得できたこと、日明貿易を通して足利将軍家と関係の深かった宗氏や島津氏からの支援もあり、財政的には困難な状態ではなかったといわれている。一方で、征夷大将軍として一定の格式を維持し、更に対信長の外交工作を行っていく以上、その費用も決して少なくはなく、また恒常的に保証された収入が少ない以上、その財政はかなり困難であったとする見方もあり、天正年間後期には真木島昭光・一色昭孝(唐橋在通)クラスの重臣ですら吉見氏や山内首藤氏など毛利氏麾下の国衆への「預置」(一時的に客将として与えて面倒をみさせる)の措置を取っている。 毛利氏が上洛に踏み切らないのは、北九州で大友宗麟の侵攻を受けているからだと考えた義昭は島津氏や龍造寺氏に大友氏討伐を命じる御内書を下した。島津義久はこれを大友領侵攻の大義名分として北上し、日向の伊東義祐を旧領に復帰させるために南下しようとしていた大友宗麟と激突、天正6年(1578年)の耳川の戦いの一因になったとする説もある。 毛利氏もまた、義昭のために全く動いていない訳ではなかった。天正4年(1576年)に三好長治が自害に追い込まれて阿波の三好家中が混乱すると、天正6年(1578年)に毛利輝元は三好義堅(十河存保)を三好氏の当主と認めて和睦、連合して織田氏に対抗しようとする。義昭自身は最初、和睦には反対であったが、最終的には同意して真木島昭光に仲介を命じている。だが、織田氏と結んだ土佐の長宗我部元親の讃岐・阿波侵攻によって、計画は失敗してしまった。 信長が横死した本能寺の変において、足利義昭を黒幕とする説があるが、以下の理由により黒幕説は成立しないとされている。6月9日に明智光秀が細川藤孝・忠興父子に宛てた覚書に光秀と藤孝にとって共通の旧主である義昭の存在が全く見えないこと。義昭が光秀の謀反に何らかの形で関わっていたとしたら、この場面で義昭を引き合いに出さないのは不自然で、信義を尊ぶ細川父子であればなおのこと有効であったはずである。義昭の存在が謀反の名分になっていなかったことを意味するものであるといえる。 信長打倒を目指して行動を続けていた義昭のもとに、信長を自害させたという密書が届けられた形跡がない。それどころか光秀周辺とのつながりを示すような材料も全く見えてこない。このことは毛利氏の場合も同様である。信長の死を知らせる光秀の使者が秀吉の陣営に迷い込んで捕らえられた不手際も、義昭と毛利氏が本能寺の変を全く予測できなかったことの証であり、義昭が黒幕として光秀を操っていたのなら、あらかじめ隠密の使者のルートが調えられていたに違いない。 吉川広家の覚書(案文)には、毛利氏は秀吉撤退の日の翌日に本能寺の変報を入手しており、秀吉との和議が成ったことを理由に織田軍の追撃をしなかった。この事実は、義昭と事変との関わりの是非を知るうえで意義深いものである。仮に義昭が黒幕として光秀と通じていたならば、光秀が京都を抑えていた段階で秀吉への追撃を思いとどまることなどありえなかったであろう。むしろ、一気に攻勢をかけなければいけなかったはずである。 以上のことから、義昭を黒幕と見るにはかなりの困難がともない、学問的には否定材料しか見当らず肯定する要素はないのが現実であるといえる。 天下統一を実現した秀吉が幕府の創立を目論み、義昭に大名にする代わりに自分を養子としてくれるようにと望んだが、これを拒絶され、やむなく関白になった、という逸話が伝わる。だが、これは林羅山の説が初出であり、将軍を神聖視する羅山によって捏造されたものであると考えられている。 『多聞院日記』によると、天正12年16日に秀吉は正親町天皇から将軍に任官するようにとの勅定を受けていたが、これを断ったとされる。秀吉は信長と同様に、将軍への任官を望んでいなかったと考えられている。なぜなら、秀吉こそが、将軍・義昭を庇護した毛利輝元や、義昭の調略を受けた諸将を撃破し、義昭の将軍権威を叩き潰した張本人だったからである。
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