武家を中心とした死生観
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上述のように平安時代は死生観が変遷する上で重要な転機を迎えた時代であったが、もう一つ重要な変化も起きていた。武士の台頭である。武士は職業柄、死と隣り合わせでありまた仏教の殺生戒に触れるためか一般に来世はあまり語られていない。日本の軍記物の最初とされる『平家物語』は冒頭が「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で始まるとおり仏教色の濃い作品であるが、平清盛の病死は剛毅な遺言を残し「むなしき土とぞなり給ふ」で結んだり、平維盛の段では雅さを描き(桜の花に喩えられる)「後生菩提の妨げとなりける口惜しさよ」と思いながらも念仏を唱えて入水するように武士の個性が表される。だが死生観の面では「むなしき」感を見落としてはならない。また怨霊の恐ろしさも強調されていて最後の建礼門院の語りが鎮魂の役を努めるかのようになっている。 『平家物語』の舞台は貴族的な平安の末期であったが、武家政権が成立した時代以降は戦場での死に向き合わざるを得ない武士の意識を大きく反映した死生観が育っていった。それがよく表れるのは死を前にした辞世の句である。 四十九年 一睡の夢 一期の栄華は 一盃の酒にしかず 柳は緑にして花は紅 上杉謙信 また辞世(死去前)の句か意見が分かれるところがあるかもしれないが決死の状況(桶狭間における少人数突撃)を前にした有名な言として 「此時、信長敦盛の舞遊ばし候 人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を得て成せぬ者はあるべきかと候て」 - 『信長公記』太田牛一 での織田信長 引用元は「人間五十年 化天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり 一度生を受け滅せぬ者の有るべきか」 - 幸若舞「敦盛」第三段 熊谷の発心 いずれも今生を夢幻と捉えたものであるが、儚いと観じながらもそれをおのずから・当たり前のこととして生ききったという感慨が出ている。上の二句の他にも羽柴秀吉、明智光秀ら多数が夢ないしはそれに通じたところのある無常観を詠んでいる。夢として詠うのは武士に限らず、例えば平安時代に成立して仏教の「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」の偈を意訳したという 色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず いわゆるいろは歌であるが、ここでは「浅い夢など見ないで、(何処かへ)越えて行こう」という同じ無常観に立ちながらも違う姿勢が見える。仏教と無縁ではないが同じ言葉を扱いながらも独自の意味を込めているのが武士の特色といえる。武士の死生観は命に執着することを「恥」とし、この世における「名」を重んじるものであった。これは後世江戸幕府が論拠とした儒教にも連なる。
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