徳川時代の江戸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 01:58 UTC 版)
ありきたりの地方の城下町から巨大都市への大改造を実現した人物は、徳川家康であった。 1590年、後北条氏が小田原征伐で豊臣秀吉に滅ぼされると、後北条氏の旧領に封ぜられ、関東・奥羽方面の押さえを期待された徳川家康は、関東地方の中心となるべき居城を江戸に定めた。同年の旧暦8月1日(八朔)、家康は駿府から居を移すが、当時の江戸城は老朽化した粗末な城であったという。家康は江戸城本城の拡張は一定程度に留める代わりに城下町の建設を進め、神田山を削り、日比谷入江を盛んに埋め立てて町を広げ、家臣と町民の家屋敷を配置した。突貫工事であったために、埋め立て当初は地面が固まっておらず、乾燥して風が吹くと、もの凄い埃が舞い上がるという有様だったと言われる。この時期の江戸城はこれまでの本丸・二ノ丸に、西丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸があり、また道三堀の開削や平川の江戸前島中央部への移設、それに伴う埋め立てにより、現在の西丸下の半分以上が埋め立られている(この時期の本城といえるのはこの内、本丸・二ノ丸と家康の隠居所として造られた西丸である)。 家康が1600年の関ヶ原の戦いに勝利して天下人となり、1603年に征夷大将軍に任ぜられると、幕府の所在地として江戸の政治的重要性は一気に高まり、徳川家に服する諸大名の屋敷が設けられた。江戸に居住する大名の家臣・家族や、徳川氏の旗本・御家人などの武士が数多く居住するようになるとともに、町人を呼び寄せて、町が急速に拡大した。江戸城とその堀は幕府から諸大名に課せられた手伝普請によって整備され、江戸城は巨大な堅城に生まれ変わり、城と武家屋敷を取り巻く広大な惣構が構築された。(都市開発の歴史については後の都市の章で述べる。) 1657年の明暦の大火の後、再建事業によって市域は隅田川を超え、東へと拡大した。その人口は絶えず拡大を続け、18世紀初頭には人口が百万人を超え、大江戸八百八町といわれる世界有数(一説によると当時世界一)の大都市へと発展を遂げた。人口の増大は、江戸を東日本における大消費地とし、日本各地の農村と結ばれた大市場、経済的先進地方である上方(近畿地方)と関東地方を結ぶ中継市場として、経済的な重要性も増した。当時の江戸は、『東都歳時記』、『富嶽三十六景』にみる葛飾北斎の両国(現在の墨田区)からの作品などからも見られるように、漢風に「東都」とも呼ばれる大都市となっていた。18世紀末から19世紀初めには、上方にかわる文化的な中心地ともなり、経済活動や参勤交代を通じた江戸を中心とする人の往来は江戸から地方へ、地方から江戸へ盛んな文化の伝播をもたらした。一方で、膨大な人口が農村から江戸に流入して、様々な都市問題を引き起こすことにもなった。
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