徳川時代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 01:45 UTC 版)
永禄11年(1568年)、今川氏・北条氏との甲相駿三国同盟が手切となり武田信玄による駿河侵攻が開始され、駿府城下に火が懸けられたため、臨済寺の堂宇も灰燼に帰した。しかし、天正10年(1582年)の武田氏滅亡後に駿河を領有した徳川家康が正親町天皇の勅命によって復興・整備を進め、現在も残る本堂が再建されるなど盛時の姿を取り戻した。 当寺は、今川氏人質時代の家康(松平竹千代)が教育を受けたところとしても知られており、駿府が徳川幕府直轄地となった江戸期を通じて徳川氏の手厚い庇護を受けた。 1918年(大正7年)『静岡案内』「臨済寺」天正10年、家康、甲斐の武田信玄と其の地に戦い依って兵火に遇いしが、同年8月、正親町天皇の勅を奏して建立す、即ち今日の殿堂これなり。明治維新神仏混淆を許されなくなり、同年20年頃、山門を新築し内に今の十二神、元浅間の楼門にありしが之を安置す。域広く樹木鬱蒼し、山門、方丈、大書院、及庫裡、護国道場等あり、伽藍雄大にして美観、寺内に今上天皇陛下皇太子殿下に在ま頃の御手植松、内親王常宮、周宮両殿下の御手植の桜、家康公接木の西湖梅等あり。 — 浦田張洲編『静岡案内』「臨済寺」、1918年(大正7年)2月発行より抜粋 ー
※この「徳川時代以降」の解説は、「臨済寺 (静岡市)」の解説の一部です。
「徳川時代以降」を含む「臨済寺 (静岡市)」の記事については、「臨済寺 (静岡市)」の概要を参照ください。
- 徳川時代以降のページへのリンク