徳川氏と清水寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 04:56 UTC 版)
「清水寺 (静岡市)」の記事における「徳川氏と清水寺」の解説
開創された清水寺は、堂宇が整うまでもなく1568年(永禄11年)には武田氏の駿河侵攻によって焼失してしまう。しかし、徳川家康が、1582年(天正10年)に駿府を領有して以降はしばしば当寺を参拝し、自らの念持仏の千手観音(伝・恵心僧都作)を奉納するなどした。 また、家康が将軍として江戸城にあった1602年(慶長7年)には高10石の朱印地を与え、この朱印をもって供養田と山林を寄進するとともに、三つ葉葵の使用を許した。そして、大御所として駿府にあった最晩年の1616年(元和2年)には本堂の再建を行った。 その後も当寺は、たびたび災害にあっているが、その都度幕府によって修理が施されている。だが、文化年間には整っていた伽藍が明治初めの絵図に描かれていないのは、安政の大地震によってその大部分が崩壊して以来修理をされていなかったからである。したがって、長い間、幕府の加護を受けてきた当寺もたびかさなる災害により、幕末には衰退の道を歩んでいたことが分かる。 明治維新後、徳川慶喜や徳川家達が静岡にいた際、何度か当寺を訪れ若干の寄進を行った。
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