徳川氏の移封と東京の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 08:58 UTC 版)
「東京奠都」の記事における「徳川氏の移封と東京の誕生」の解説
慶応4年(1868年)5月24日、徳川氏が江戸から駿府70万石に移されることが決まると、大木・江藤の東西両都案も決され、政府は同年6月19日、参与・木戸孝允と大木に江戸が帝都として適しているかの調査にあたらせた。2人は有栖川宮・三条・大久保・江藤らと協議の上、同年7月7日に京都へ戻り、奠都が可能であることを報告した。これを受けて同年7月17日、江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書が発せられた。この詔書では、天皇が日本をひとつの家族として東西を同視するとし、江戸が東国で第一の大都市・要所であるため天皇がここで政治をみることと、そのために江戸を東京と称することが発表された。保守派や京都市民への配慮から、東京奠都を明確にはしなかったものの、東西両京の方針通り東京が誕生した。
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