徳川氏家臣時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 08:01 UTC 版)
天正壬午の乱終結後も引き続き徳川氏配下の従属国衆となり、天正12年(1584年)7月に家康の異父妹多却姫(久松松平氏の娘)を娶ることで徳川氏と縁戚となった。同年8月に小牧・長久手の戦いが起きると、木曽谷領主の木曾義昌が豊臣秀吉に寝返ったため、家康は9月に菅沼定利に正直や諏訪頼忠を率いさせて木曾に派遣した。しかし妻籠城の山村良勝に撃退されて敗退し、正直を殿軍として撤退した。 天正13年(1585年)には上杉景勝に通じた真田昌幸の拠る上田城攻め(第一次上田合戦)に従軍して活躍した。同時期に小笠原貞慶が豊臣方に寝返り、同年12月に上田方面に出陣中であった正直の留守を狙って小笠原貞慶が高遠城に攻め寄せてきたが、隠居の老父・正俊の陣頭指揮により撃退した。これにより、徳川方の信濃方面の戦線崩壊は免れた。 天正17年(1589年)に秀吉が京都大仏を造営するに当たり、家康の命令で富士山の木材伐採を務めた。天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加し、家康の関東入部に伴って下総国多胡に1万石の領地を与えられた。天正19年(1591年)の九戸政実の乱鎮圧にも参加した。 慶長5年(1600年)頃には嫡男・正光に家督を譲り隠居した。翌年(1601年)9月29日、高遠城で死去した、享年60。
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