徳川氏の家臣時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 02:50 UTC 版)
天正10年(1582年)6月に本能寺の変で織田信長が死去し、さらに家康の伊賀越えの最中に穴山信君が殺害されると、正綱は6日に家康より穴山氏の甲斐河内領に派遣され、菅沼城(現・身延町)の普請を行い穴山領の保全を図っている。直後に徳川軍が甲斐国に侵攻すると大須賀康高や曽根昌世と共に先陣を務め、旧知である旧武田家臣の調略などを行って、家康の甲斐平定に尽力した。翌年(1583年)正月には、家康より平岩親吉と共に軍事指揮下にあった穴山武田氏の軍勢への指図を任された。徳川氏の甲斐支配体制においては、徳川家譜代の家臣の平岩親吉と同格に置かれていたとする説もある。
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