『日本王国記』
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「ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン」の記事における「『日本王国記』」の解説
原題は『転訛してハポンと呼ばれている日本王国に関する報告』(スペイン語: Relación del Reino de Nippon a que llaman corruptamente Jappon)。 アビラ・ヒロンは、『日本王国記』の初稿(第1輯)を1598年に執筆したと記しているが、この原稿は発見されていない。その後、第1輯をもとにして1615年3月18日までの記録を増補・訂正した第2輯が執筆され、さらにその後、1619年3月15日までの記録を加筆した第3輯が執筆された。第2輯の写本は、エル・エスコリアル図書館本、ローマ・イエズス会文書館本、マドリード国立図書館本の3種が現存している。このうちイエズス会文書館本には、1590年から1614年まで日本に滞在していたスペイン人イエズス会士ペドロ・モレホン(Pedro Morejón, 1563 - 1639)によって、400あまりの注釈が書き加えられている。なおモレホンは、『日本王国記』自体については「著者みずからは正確であるといっているにもかかわらず、彼の日本に関する知識の僅少の故に数多くの誤りがある」と評している。 1883年に初めてスペインで公刊され、レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』などに引用された。その後、ドロテオ・シリング(Doroteo Schilling)とフィデール・デ・レハルサ(Fidel de Lejarza)による校訂が『アルチーボ・イベロ・アメリカーノ』(Archivo Ibero-Americano)誌に1933年から1935年まで連載された。ただし、スペイン内戦のため、第15章前半までで中断となっている。1965年(昭和40年)には、佐久間正と会田由による日本語訳(佐久間正・岩生成一注)が、岩波書店『大航海時代叢書』の1冊として刊行された(ルイス・フロイスの『日欧文化比較』との合本)。これはシリングとレハルサによる校訂本文を底本とし、第15章第2節以後は、直接、第2輯の写本に基づいて翻訳したものである。 内容は1549年(天文18年)の三好政権成立から始まり、1615年(元和元年)3月にまで及んでいる。この間、織田信長の台頭、本能寺の変(1582年)、山崎の戦い(1582年)、豊臣秀吉の政権掌握、バテレン追放令(1587年)、朝鮮出兵、豊臣秀次の切腹、慶長伏見地震(1596年)、サン=フェリペ号事件(1596年)、ロドリゴ・デ・ビベロの日本漂着(1609年)、ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件(1610年)、大坂の陣(1614 - 15年)など、日本で起こった重要な事件の多くを記載している。うち、信長の事績については、信長と親交のあったグレゴリオ・デ・セスペデスからの資料提供を受けており、伏見地震についてはジェロニモ・デ・ジェズズおよび日本人からの聞き取りを行っている。また、京都の三条河原で盗賊団が生きたまま油で煮られた、という記事があり、モレホンがこの盗賊の名を石川五右衛門と注記していることから、この盗賊の実在が確認されることになった。 なお、内容の半分以上はキリシタンの布教・迫害史にあてられており、特に1597年の日本二十六聖人の殉教や、1614年の高山右近・内藤如安らの国外追放については、長崎で実見したことを詳細に記録している。
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