歴史の発見と研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 07:56 UTC 版)
「ネフェルネフェルウアトン」の記事における「歴史の発見と研究」の解説
ツタンカーメン王墓KV62には、ネフェルネフェルウアトンまたはスメンクカーラーに割り当てることができるいくつかの副葬品がある。それらから即位名アンクケペルゥラーと誕生名ネフェルネフェルウアトンの両方を再構築できる。Marianne Eaton-Kraussの研究によれば、ツタンカーメンの石棺でさえも最初から彼のために用意されたものではなかったようである。ツタンカーメンという名前で上書きされている石棺のカルトゥーシュから、元の名前は再構築できなかった。同じことは、宝庫にある腸を収めた棺に描かれた王の顔の特徴が他の宝物でのツタンカーメンの表現と異なることに当てはまる可能性がある。 ペイリという名前の司祭のものであるテーベの墓TT139の碑文冒頭にある出来事の時として次のことが記されている。 統治3年、増水季3月、10日目。上下エジプト王、二国の所有者「Anchcheperure meri Aten」「Neferneferuaton meri Waenre」の息子。 1980年代まで、ネフェルネフェルウアトンとスメンクカーラーはこれらの発見に基づいて同一視されていた。1973年に、エジプト学者ジョン・R・ハリスが、いくつかのカルトゥーシュが「Anchet-cheperu-Re」または「merit」という名の女性形を持っていることを発見した。これは、その人物が女性なのか男性なのかあるいはゲイであるのかどうかについての議論につながった。ロルフ・クラウスは1978年にネフェルネフェルウアトンとスメンクカーラーは異なる人物であるとする説を提案した。1988年にジェームズ・P・アレンは、「Anch(et)-cheperu-Re」という王座名と「ネフェルネフェルウアトン」という誕生名が一緒に現れたときには、ほとんどの場合にAkenhenatenを指す別名が付随することを発見し、クラウスの説を支持した。一方、「Anch-cheperu-Re」と「スメンクカーラー」という名前が一緒に現れたときには、この言い回しは常に欠落していた。 1998年に、Marc Gaboldeはツタンカーメンの墓から発見されたオブジェクトのうち元々ネフェルネフェルウアトンのものであったとみられるいくつかの物の銘文が「meri nefer-cheperu-Re」(「Nefer-cheperu-Reに愛されている」)ではなく、元々「Achetenhyes」 (「夫にとって良いこと」)であったという結論に達した。この銘文は女性にのみ合てはまる。数年後、シナイ半島のテルエルボルグで印章が見つかった。これは、この形式の名前も反映している。 カナダのエジプト学者Valérie Angenotは2019年にアマルナ期のいくつかの王室の胸像とプスケントを着用した人物およびケペレシュを着用した人物が描かれている石碑、No.17813を記号論的に調査した。この異常に親密なジェスチャーは、この形式ではアクエンアテンの娘の表現のためにのみ使われている。彫像の比率を既知の王女の彫像と比較することにより、彼女はハノーバーのアクエンアテンの胸像を彼の娘の一人の画像として、そして王女の状態からファラオへの移行の表現として見る。
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