歴史の概観-古代文献学
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「ホメーロス問題」の記事における「歴史の概観-古代文献学」の解説
古代のホメーロス文献学は紀元前2世紀及び紀元前3世紀に全盛期を迎えた。最初の論争の中心はアレクサンドリア大図書館であった。ホメーロス解説者であったエフェソスのゼノドトス(英語版)(紀元前325年〜紀元前234年)は叙事詩を24巻に分割することを始め、その弟子であったビュザンティオンのアリストファネス(英語版)(紀元前257年〜紀元前180年)やサモトラケのアリスタルコス(紀元前217年〜紀元前145年)は個々の詩句や詩句群の正当性を巡る議論を行った。こうした研究によっていくつかのテクストの集合を抹消することすら行われた。しかしこの際、双方の叙事詩が一人の著者によって起草されたことを疑うものは一人もいなかった。このような疑問はこの時代にはほとんど現れなかったのである。 一人の著者が叙事詩の起草者であることについては、紀元前2世紀になって初めて、急進的なコリゾンテン学派(分割学派)によって否定された。分割学派には文法家のクセノンやヘラニコスらがいた。分割学派は相反する見解を代表していたアリスタルコスと活発に論争した。やがてこの論争は両叙事詩の構造の起源について決定的な考察に帰結した。ある理論によれば、アテーナイの僭主であったペイシストラトスが今まで混乱・混淆していたホメーロスの諸巻を固有の正統的評価に従って整理した、というのである。 紀元後1世紀、ホメーロス問題は、ユダヤ人の歴史家であったフラウィウス・ヨセフス(37年/38年〜100年)にとっての論争上の武器として役立てられた。アレクサンドリアの文法家でありホメーロス専門家でもあったアピオンに対して書かれた「ユダヤ人の上代について」(アピオンへの論駁)の中でヨセフスは、ギリシア人はユダヤ人よりもかなり遅くに読み書きを覚えた、と述べている。というのも、ギリシア最古の記念碑的著作であるホメーロスは「彼の詩作を、人が言うように、一度として文字によっては残さなかったのであり、彼の詩は記憶によって再提示されるが、故に多くの意味の通らない部分を含んでいるということである」からである。 ホメーロス問題はその後、14世紀中頃にフランチェスコ・ペトラルカ(1304年〜1374年)が採り上げるまで沈静化していた。ペトラルカはホメーロスを西欧世界に知らしめた人間である。近代に於ける問題への取り組みは、ホメーロスの詩に対する強い歴史的意味付けによって特徴づけられている。この取り組みによって、ホメーロスの正確な時間的位置づけや、ホメーロスの詩が置かれていた諸条件に対しての問題が提起されることとなった。こうした様相の下、オランダの歴史家ヨハネス・ペリゾニウス(1568年〜1631年)は古代についての論争を再び採り上げた。ペリゾニウスの理論によれば、ホメーロスは口述によって諸歌を詩作したが、その諸歌が後に書きとめられ、ペイシストラトスの指示によってアテーナイで組み合わされた結果イーリアスとオデュッセイアが成立した、という。 1715年に公表されたオベニャックのアベ(神父)であったフランソワ・エデラン(英語版)の説は、あまり真剣なものとは考えられなかった。エデラン説ではホメーロスという一人の人間の存在自体が争点となった。エデランはホメーロスの叙事詩のことを「悲劇と乞食や奇術師のごちゃまぜの路上歌謡」が組み合わされた断片集として考えていたからである。
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