再発見と研究
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16世紀頃から、急速に忘れられていた『ニーベルンゲンの歌』は1755年にリンダウの医師ヤーコプ・ヘルマン・オーペライトにより、オーストリア西部フォアアールベルクのホーエン・エムス伯爵の図書館でその写本が再発見された(13世紀末、写本A)。これを皮切りに現在までに完本・断片合わせて30以上の種類が発見されているが、主なものは「ホーエン・エムス・ミュンヘン本」と呼ばれる写本Aを含む3種類である。そのひとつが、1768年にザンクト・ガレンにある修道院図書館から発見された別系統の写本であり(13世紀半ば、写本B)、もうひとつは19世紀半ばに発見された「ホーエン・エムス・ラスベルク本」と呼ばれる、3つの中では一番詩節数が多い写本である(13世紀前半、写本C)。これら3種の写本はABCの順で詩節数が少なく (Aがもっとも少ない)、また同様にAが最も矛盾や齟齬が多い。 『ニーベルンゲンの歌』は一人の作者によって作り上げられたものなのか、複数の人物が作り上げたものが集った結果なのかという問題は、この物語における論点のひとつであった。19世紀はじめ頃カール・ラッハマンは、この作品は複数の人物によって作り上げられたものが集って完成したものだとする「歌謡集積説」を唱えた。一方、アドルフ・ホルツマンやフリードリヒ・ツァルンケはラッハマンとは逆の考えを唱え、この叙事詩は一人の人物によって作り上げられたものであると主張した。 20世紀に入り、アンドレアス・ホイスラーがラッハマンの歌謡集積説を否定、「発展段階説」と呼ばれる説を唱えた。これは、物語は主に2つの流れ(ブリュンヒルト伝説とブルグント伝説)が別々に段階的に発展した後、ある時期に纏め上げられたものであり、『ニーベルンゲンの歌』自体は一人の作者によって作られたものであるという主張である。この説も推測の域をでていないこともあり、ホイスラーの説が発表された後も、それとは別の成立方法を主張する人物はいるが、現在に至るまでホイスラー以上の説得力を持ちえた説はなく、現在では彼の主張が一般的に受け入れられている。 どの写本が原本にもっとも近いのかという論点については、まずカール・ラッハマンは自身の「歌謡集積説」を理由に、このような成立をしたものは矛盾、齟齬が多いはずであるという考えから写本Aが原本にもっとも近いと主張した。一方、アドルフ・ホルツマンやフリードリヒ・ツァルンケも自身の主張を根拠に、一人で作られたからには最も問題点の少ない写本Cこそが原本にもっとも近いと主張した。その後カール・バルチュ、続いてヴィルヘルム・ブラウネの研究により写本Bがもっとも原本に近いものであるということが明かされ、現在ではこの説が一般的に受け入れられている。日本語訳も写本Bが元となっている。
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再発見と研究
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古代ギリシアの芸術への興味はルネサンス期の古典学の復興よりやや遅れて、1630年代のローマでニコラ・プッサンを中心とする学問的サークルにおいて復活した。イタリアの古代の墓から見つかった陶器の収集は15世紀から多少行われていたが、それらはエトルリア産とみなされていた。ロレンツォ・デ・メディチはギリシャから直接アッティカ式陶器をいくつか購入したと見られている。しかし、ギリシアの陶器とイタリア中央部で出土した陶器の関係が明らかになるのはもっと後のことである。ヴィンケルマンは『古代美術史』(1764年)の中で、エトルリアのものとされている陶器の起源について初めて疑義を提示した。しかしウィリアム・ダグラス・ハミルトンが収集していた2つの陶器(1つは海に沈み、もう1つは現在大英博物館にある)は依然として「エトルリアの陶器」とされていた。1837年、オットー・マグヌス・フォン・シュタッケルベルクの Gräber der Hellenen により、この議論に終止符が打たれた。 古代ギリシアの陶器の初期の研究は、まず陶器に描かれている絵の画集の制作から始まった。しかし、初期の画集は陶器の形状も詳細なデータも付記されておらず、考古学的記録としては信頼できないものだった。学問的な真剣な取り組みは、1828年ローマでの Instituto di Corrispondenza(後のドイツ考古学研究所)創設を起点として19世紀の間徐々に進展し、Eduard Gerhard の先駆的研究である Auserlesene Griechische Vasenbilder(1840年 - 1858年)を経て、1843年には Archaeologische Zeitung、1846年には Ecole d'Athens という専門誌が創刊された。「東方化」、「黒絵式」、「赤絵式」といった今も使われている時代区分は Gerhard が作った。そして、1854年、ミュンヘンのアルテ・ピナコテークのカタログ Vasensammlung を Otto Jahn が制作した。これにより古代ギリシアの陶器についての科学的記述法の標準が確立し、形状や銘など詳細な記述をするようになった。Jahnの研究は長い間教科書的に定説として扱われていたが、Gerhardと同様、彼は赤絵式の登場年代を実際よりも1世紀遅く見積もっていた。この間違いが訂正されたのは、1885年にアテネ考古学会が行ったアクロポリスの発掘調査で紀元前480年のアケメネス朝の侵略で破壊された赤絵式陶器(英語版)が見つかった後である。1880年代から1890年代にアドルフ・フルトヴェングラーが発掘した地層の年代からそこで見つかった陶器の年代を推定する手法を確立し、後にその手法を Flinders Petrie が絵の描かれていないエジプトの陶器に適用した。 19世紀が発見と原理確立の時代だったとすれば、20世紀は強化と知的産業の時代だった。公にされているコレクションに含まれる陶器の網羅的な記録を作成する努力から Corpus Vasorum Antiquorum が生まれた。Giovanni Morelli の様式分析から漏れた多数の絵付師の名前は、John Beazley の Attic Red-Figure Vase Painters(1942年)や Attic Black-Figure Vase Painters(1956年)で明らかとなった。同様に Arthur Dale Trendall、Humfrey Payne、Darrell A. Amyx がそれまで見過ごされていたアプリアやコリントスの系統を年代順にまとめた。 Beazleyらはまた、陶器の破片を研究してそれらに描かれている絵の断片がどの絵付師のものか推定していった。このような陶器片を disjecta membra(散乱した部分)と呼び、別々のコレクションに同じ陶器を構成する破片が含まれていることもよくあることがわかっている。
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