再発見と研究とは? わかりやすく解説

再発見と研究

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 16:31 UTC 版)

ニーベルンゲンの歌」の記事における「再発見と研究」の解説

16世紀頃から、急速に忘れられていた『ニーベルンゲンの歌』は1755年リンダウ医師ヤーコプ・ヘルマン・オーペライトにより、オーストリア西部フォアアールベルクホーエン・エムス伯爵図書館でその写本再発見された(13世紀末、写本A)。これを皮切りに現在までに完本断片合わせて30上の種類発見されているが、主なものは「ホーエン・エムス・ミュンヘン本」と呼ばれる写本Aを含む3種類である。そのひとつが、1768年ザンクト・ガレンにある修道院図書館から発見され別系統写本であり(13世紀半ば写本B)、もうひとつ19世紀半ば発見された「ホーエン・エムス・ラスベルク本」と呼ばれる3つの中では一番詩節数が多い写本である(13世紀前半写本C)。これら3種写本はABCの順で詩節数が少なく (Aがもっと少ない)、また同様にAが最も矛盾齟齬が多い。 『ニーベルンゲンの歌』は一人作者によって作り上げられたものなのか、複数人物作り上げたものが集った結果なのかという問題は、この物語における論点のひとつであった19世紀はじめ頃カール・ラッハマンは、この作品複数人物によって作り上げられたものが集って完成したものだとする「歌謡集積説」を唱えた一方、アドルフ・ホルツマンやフリードリヒ・ツァルンケはラッハマンとは逆の考え唱え、この叙事詩一人人物によって作り上げられたものである主張した20世紀入りアンドレアス・ホイスラーがラッハマンの歌謡集積説を否定、「発展段階説」と呼ばれる説を唱えた。これは、物語は主に2つ流れブリュンヒルト伝説ブルグント伝説)が別々に段階的に発展した後、ある時期纏め上げられたものであり、『ニーベルンゲンの歌自体一人作者によって作られたものであるという主張である。この説も推測の域をでていないこともあり、ホイスラーの説が発表された後も、それとは別の成立方法主張する人物はいるが、現在に至るまでホイスラー上の説得力持ちえた説はなく、現在では彼の主張一般的に受け入れられている。 どの写本原本もっとも近いのかという論点については、まずカール・ラッハマン自身の「歌謡集積説」を理由に、このような成立したもの矛盾齟齬が多いはずであるという考えから写本Aが原本もっとも近い主張した一方、アドルフ・ホルツマンやフリードリヒ・ツァルンケも自身主張根拠に、一人作られからには最も問題点少な写本Cこそが原本もっとも近い主張したその後カール・バルチュ、続いてヴィルヘルム・ブラウネの研究により写本Bがもっと原本に近いものであるということ明かされ、現在ではこの説が一般的に受け入れられている。日本語訳写本Bが元となっている。

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再発見と研究

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 05:28 UTC 版)

古代ギリシアの陶芸」の記事における「再発見と研究」の解説

古代ギリシア芸術への興味ルネサンス期古典学の復興よりやや遅れて1630年代ローマでニコラ・プッサン中心とする学問的サークルにおいて復活したイタリア古代の墓から見つかった陶器収集15世紀から多少行われていたが、それらはエトルリア産とみなされていた。ロレンツォ・デ・メディチギリシャから直接アッティカ式陶器いくつか購入した見られている。しかし、ギリシア陶器イタリア中央部出土した陶器の関係が明らかになるのはもっと後のことである。ヴィンケルマンは『古代美術史』(1764年)の中で、エトルリアのものとされている陶器起源について初め疑義提示した。しかしウィリアム・ダグラス・ハミルトン収集していた2つ陶器1つは海に沈み、もう1つは現在大英博物館にある)は依然としてエトルリア陶器」とされていた。1837年、オットー・マグヌス・フォン・シュタッケルベルクの Gräber der Hellenen により、この議論終止符打たれた。 古代ギリシア陶器初期の研究は、まず陶器描かれている絵の画集制作から始まった。しかし、初期画集陶器形状詳細なデータ付記されておらず、考古学的記録としては信頼できないのだった学問的な真剣な取り組みは、1828年ローマでの Instituto di Corrispondenza(後のドイツ考古学研究所)創設起点として19世紀の間徐々に進展しEduard Gerhard先駆的研究である Auserlesene Griechische Vasenbilder(1840年 - 1858年)を経て1843年には Archaeologische Zeitung、1846年には Ecole d'Athens という専門誌創刊された。「東方化」、「黒絵式」、「赤絵式」といった今も使われている時代区分Gerhard作った。そして、1854年ミュンヘンアルテ・ピナコテークカタログ Vasensammlung を Otto Jahn制作した。これにより古代ギリシア陶器についての科学的記述法の標準確立し形状や銘など詳細な記述をするようになった。Jahnの研究長い間教科書的に定説として扱われていたが、Gerhardと同様、彼は赤絵式登場年代実際よりも1世紀遅く見積もっていた。この間違い訂正されたのは、1885年アテネ考古学が行ったアクロポリス発掘調査紀元前480年アケメネス朝侵略破壊され赤絵式陶器英語版)が見つかった後である。1880年代から1890年代アドルフ・フルトヴェングラー発掘した地層年代からそこで見つかった陶器年代推定する手法確立し、後にその手法Flinders Petrie が絵の描かれていないエジプト陶器適用した19世紀発見原理確立時代だったとすれば20世紀強化知的産業時代だった。公にされているコレクション含まれる陶器網羅的な記録作成する努力から Corpus Vasorum Antiquorum が生まれたGiovanni Morelli様式分析から漏れた多数絵付師の名前は、John BeazleyAttic Red-Figure Vase Painters(1942年)や Attic Black-Figure Vase Painters(1956年)で明らかとなった同様に Arthur Dale Trendall、Humfrey Payne、Darrell A. Amyx がそれまで見過ごされていたアプリアコリントス系統年代順にまとめた。 Beazleyらはまた、陶器破片研究してそれらに描かれている絵の断片がどの絵付師のものか推定していった。このような陶器片を disjecta membra(散乱した部分)と呼び、別々のコレクションに同じ陶器構成する破片含まれていることもよくあることがわかっている。

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