再発見と発掘とは? わかりやすく解説

再発見と発掘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/11 22:08 UTC 版)

バッサイ」の記事における「再発見と発掘」の解説

考古遺跡としてのバッサイ神殿について最初に言及をしたのは、フランス人建築家ジョアシャン・ボシェ(Joachim Bocher)で、1765年11月のことであった。彼はザンテ(Zante)に別荘建てていたところで、その責任者になったのは全くの偶然だった。ただし、彼は二度目調査戻って来た時に暴漢たちによって殺されてしまった。チャールズ・コックレルとハラー・フォン・ハラーシュタイン(Haller von Hallerstein)はアイギナ彫像救い出していたが、彼らがバッサイ更なる成功目指したのは、1811年のことだった。翌年、コックレルとオットー・マグヌス・フォン・シュタッケルベルク(Otto Magnus von Stackelberg)の指揮発掘始まりいくつかの部分出土した出土品には、ザンテで大英博物館落札することになるフリーズ含まれていた。この遺跡については注意深く描かれスケッチ存在していたが、それは海中没したフリーズ彫刻群はまず1814年ローマで出版され1820年には大英博物館が公式資料刊行した。 他の性急な訪問次々出版もたらしたが、完全な形で成果出版され調査1836年まで実現しなかった。それを実現したのはカール・ブリューロフ指揮下でのロシア人考古学者たちである。その発見の中で最も耳目惹きつけたと思われるのは、現存最古コリント式柱頭であったろう。このときに出土した加工品いくつかは、モスクワプーシキン美術館で見る事ができる。 1902年に、考古学者Konstantinos Kourouniotis, Konstantinos Romaios, Panagiotis Kavvadiasらが監督する形で、アテネギリシャ考古学会(Greek Archaeological Society)による体系的な発掘調査が行われた。更なる発掘調査はNikolaos Gialourisの指揮下で1959年1970年1975-1979年行われた

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再発見と発掘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 07:53 UTC 版)

アマルナ」の記事における「再発見と発掘」の解説

1714年フランスイエズス会司祭クロード・シカールが西洋においてこの都市について最初に言及した。彼はナイル川遡上する旅をした際にアマルナ境界碑を記録した1798年から1799年にかけてナポレオンエジプト遠征した際、アマルナ最初詳細な地図製作し1821年から1830年の間に刊行された『エジプト誌』に掲載した1824年、ジョン・ガードナー・ウィルキンソンがアマルナ調査し地図作成した1833年にはロバート・ヘイらがアマルナ周辺調査し都市南方に砂に埋もれた墓を発見しレリーフ記録している。その記録刊行されないまま大英図書館保管されていた。その墓の位置特定するプロジェクトは今も進行中である。 1843年1845年にはカール・リヒャルト・レプシウス率いプロイセン調査隊がアマルナ調査し(2回で合計12日間の調査)、見えている記念碑アマルナ地勢スケッチ拓本記録した。その成果1849年から1913年にかけて Denkmäler aus Ægypten und Æthiopien として刊行され中にはさらに詳細化された地図もあった。正確さ欠ける面はあるものの、Denkmäler はアマルナの墓や境界碑のレリーフ碑文研究するための基礎資料となった遺構多くその後破損した紛失したりしているため、これら初期の調査記録は非常に重要である。 1887年肥料を捜してアマルナで土を掘っていた地元女性300上の楔形文字刻まれ粘土板発見した。これらがアマルナ文書呼ばれている。重要な外交文書記録したもので、青銅器時代古代オリエントで「リングワ・フランカ」としてよく使われていたアッカド語書かれている。この発見によってアマルナ重要性認識されるようになり、さらなる調査が行われることになった1891年1892年、アレッサンドロ・バルサンティ (en) が王の墓「発見」した(地元民1880年ごろにはその存在知っていたと見られている)。ほぼ同じころフリンダーズ・ピートリーエジプト調査基金(後の英国エジプト学会)の支援によりアマルナ1シーズン過ごして発掘調査している。ピートリーは主に中央の都市発掘しアテン大神殿大王宮、王の邸宅政庁いくつかの個人宅調査した試掘より若干多い程度しかないが、ピートリー発掘調査によって、さらなる楔形文字刻んだ粘土板ガラス工房遺構が見つかり、王宮掘って出てきた土をふるいにかけて陶片ガラス片大量に発見したピートリー発掘結果素早く発表したことで、アマルナへの関心がさらに集まることになったイラストレーターNorman de Garis Davies1903年から1908年にかけてアマルナ個人の墓や境界碑の精密な模写刊行した1907年から1914年、ルートウィヒ・ボルヒャルト率いるドイツ・オリエント協会調査隊がアマルナ北の都市と南の郊外徹底的に発掘した有名なネフェルティティの胸像(現在はベルリンにある)はこのとき、彫刻家トトメス工房で他の彫像と共に発見された。第一次世界大戦の勃発により、ドイツ隊の発掘調査1914年8月中止となった1921年から1936年英国エジプト学会が再びアマルナ発掘行い、主に宗教施設王宮調査した。これにはレオナード・ウーリーらが加わっていた。 1960年代にはエジプト考古学組織現在の考古最高評議会)がアマルナ発掘とりしきるようになっていった。 都市発掘は現在、英国エジプト学会後援ケンブリッジ大学考古学者 Barry Kemp指揮している。1980年には Geoffrey Martin 率い別の調査隊が王家の墓レリーフ記録しており、後に英国エジプト学会によって2巻の本として出版された。 2007年英国エジプト学会発掘調査新たに墓地発見されている。

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