再発見と発掘
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考古遺跡としてのバッサイ神殿について最初に言及をしたのは、フランス人建築家ジョアシャン・ボシェ(Joachim Bocher)で、1765年11月のことであった。彼はザンテ(Zante)に別荘を建てていたところで、その責任者になったのは全くの偶然だった。ただし、彼は二度目の調査に戻って来た時に、暴漢たちによって殺されてしまった。チャールズ・コックレルとハラー・フォン・ハラーシュタイン(Haller von Hallerstein)はアイギナで彫像を救い出していたが、彼らがバッサイで更なる成功を目指したのは、1811年のことだった。翌年、コックレルとオットー・マグヌス・フォン・シュタッケルベルク(Otto Magnus von Stackelberg)の指揮で発掘が始まり、いくつかの部分が出土した。出土品には、ザンテで大英博物館が落札することになるフリーズも含まれていた。この遺跡については注意深く描かれたスケッチも存在していたが、それは海中に没した。フリーズの彫刻群はまず1814年にローマで出版され、1820年には大英博物館が公式資料を刊行した。 他の性急な訪問が次々の出版をもたらしたが、完全な形で成果が出版された調査は1836年まで実現しなかった。それを実現したのはカール・ブリューロフの指揮下でのロシア人考古学者たちである。その発見の中で最も耳目を惹きつけたと思われるのは、現存最古のコリント式柱頭であったろう。このときに出土した加工品のいくつかは、モスクワのプーシキン美術館で見る事ができる。 1902年に、考古学者Konstantinos Kourouniotis, Konstantinos Romaios, Panagiotis Kavvadiasらが監督する形で、アテネのギリシャ考古学会(Greek Archaeological Society)による体系的な発掘調査が行われた。更なる発掘調査はNikolaos Gialourisの指揮下で1959年、1970年、1975-1979年に行われた。
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再発見と発掘
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1714年、フランスのイエズス会司祭クロード・シカールが西洋においてこの都市について最初に言及した。彼はナイル川を遡上する旅をした際にアマルナの境界碑を記録した。1798年から1799年にかけてナポレオンがエジプトに遠征した際、アマルナの最初の詳細な地図を製作し、1821年から1830年の間に刊行された『エジプト誌』に掲載した。 1824年、ジョン・ガードナー・ウィルキンソンがアマルナを調査し、地図を作成した。1833年にはロバート・ヘイらがアマルナ周辺を調査し、都市南方に砂に埋もれた墓を発見し、レリーフを記録している。その記録は刊行されないまま大英図書館に保管されていた。その墓の位置を特定するプロジェクトは今も進行中である。 1843年と1845年にはカール・リヒャルト・レプシウス率いるプロイセンの調査隊がアマルナを調査し(2回で合計12日間の調査)、見えている記念碑やアマルナの地勢をスケッチや拓本で記録した。その成果は1849年から1913年にかけて Denkmäler aus Ægypten und Æthiopien として刊行され、中にはさらに詳細化された地図もあった。正確さに欠ける面はあるものの、Denkmäler はアマルナの墓や境界碑のレリーフや碑文を研究するための基礎資料となった。遺構の多くがその後破損したり紛失したりしているため、これら初期の調査の記録は非常に重要である。 1887年、肥料を捜してアマルナで土を掘っていた地元の女性が300枚以上の楔形文字の刻まれた粘土板を発見した。これらがアマルナ文書と呼ばれている。重要な外交文書を記録したもので、青銅器時代の古代オリエントで「リングワ・フランカ」としてよく使われていたアッカド語で書かれている。この発見によってアマルナの重要性が認識されるようになり、さらなる調査が行われることになった。 1891年と1892年、アレッサンドロ・バルサンティ (en) が王の墓を「発見」した(地元民は1880年ごろにはその存在を知っていたと見られている)。ほぼ同じころフリンダーズ・ピートリーもエジプト調査基金(後の英国エジプト学会)の支援によりアマルナで1シーズンを過ごして発掘調査している。ピートリーは主に中央の都市を発掘し、アテン大神殿、大王宮、王の邸宅、政庁、いくつかの個人宅を調査した。試掘より若干多い程度でしかないが、ピートリーの発掘調査によって、さらなる楔形文字を刻んだ粘土板やガラス工房の遺構が見つかり、王宮を掘って出てきた土をふるいにかけて陶片やガラス片も大量に発見した。ピートリーが発掘結果を素早く発表したことで、アマルナへの関心がさらに集まることになった。 イラストレーターの Norman de Garis Davies は1903年から1908年にかけてアマルナの個人の墓や境界碑の精密な模写を刊行した。 1907年から1914年、ルートウィヒ・ボルヒャルト率いるドイツ・オリエント協会の調査隊がアマルナの北の都市と南の郊外を徹底的に発掘した。有名なネフェルティティの胸像(現在はベルリンにある)はこのとき、彫刻家トトメスの工房で他の彫像と共に発見された。第一次世界大戦の勃発により、ドイツ隊の発掘調査は1914年8月に中止となった。 1921年から1936年、英国エジプト学会が再びアマルナの発掘を行い、主に宗教施設や王宮を調査した。これにはレオナード・ウーリーらが加わっていた。 1960年代にはエジプトの考古学組織(現在の考古最高評議会)がアマルナの発掘をとりしきるようになっていった。 都市の発掘は現在、英国エジプト学会の後援でケンブリッジ大学の考古学者 Barry Kemp が指揮している。1980年には Geoffrey Martin 率いる別の調査隊が王家の墓のレリーフを記録しており、後に英国エジプト学会によって2巻の本として出版された。 2007年、英国エジプト学会の発掘調査で新たに墓地が発見されている。
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