再発見と喪失
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/21 03:34 UTC 版)
本来のグルンヴァルトの剣は、1764年にワルシャワで行われた最後のポーランド王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキの戴冠式で用いられた。1792年に作成された最後の王室宝物目録にも記載されている。1794年のコシチュシュコの蜂起の際、プロイセン軍がクラクフとヴァヴェル城を占領し、宝物を略奪した。しかし彼らは無機質な二本の剣の物質的価値に関心を示さず、その歴史的価値や象徴としての意義にも気づかなかったようで、グルンヴァルトの剣は略奪を免れた。 1796年、第三次ポーランド分割に基づき、プロイセンはクラクフをハプスブルク帝国に譲った。この時、歴史家のタデウシュ・チャツキが荒れ放題の宝物庫からグルンヴァルトの剣を救い出し、イザベラ・チャルトリスカのもとに届けた。彼女はポーランド国家の記憶を伝える美術の収集家として知られていた。グルンヴァルトの剣は他の愛国的な王国の形見と共に、プワヴィのチャルトリツキ家の邸宅内に建設されたシビュラ寺院(英語版)に展示された。 1830年から1831年にかけての11月蜂起の際、チャルトリツキ家の邸宅はロシア政府により没収された。シビュラ寺院のほとんどの宝物は蜂起が勃発する直前にフランスに避難されていたが、グルンヴァルトの剣はヴウォストヴィツェ村(現在はプワヴィの一部)近くの教区司祭の家に隠されることになった。司祭が没した後の1853年、ロシアの憲兵団か秘密警察がグルンヴァルトの剣を見つけ出し、違法武器として没収したうえザモシチの要塞に持ち去った。これ以降のグルンヴァルトの剣の行方は分かっていない。
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