再発見まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 22:10 UTC 版)
「ロゼッタ・ストーン」の記事における「再発見まで」の解説
石柱は、発見地であるラシード(ロゼッタ)の街で作られたのではないことはほぼ明らかであり、より内陸に位置する神殿、おそらくはサイスという王都のものである。しかし東ローマ帝国のテオドシウス1世が非キリスト教の礼拝所の閉鎖を命じた392年ごろに、柱がもともとあった神殿も閉じられた可能性が高い。もとの石柱は何カ所かで砕けており、その最も大きい破片を今日ではロゼッタ・ストーンと呼んでいる。後に古代エジプトの神殿は新築するための石切場として使用されたが、ロゼッタ・ストーンもおそらくは同じように再利用された。さらに時代が下るとマムルーク朝のスルタン、カーイトバーイ(1416から18年ごろから1496年)がナイルのラシード支流にあるボルビティネを守るために建てた要塞に使われた。こうしてロゼッタ・ストーンは再発見されるまでに少なくとも3つの国々をまわることになる。 ロゼッタ・ストーンが発見されて以後、メンフィスの勅令を碑文にしたものは他にも2つほど見つかっている。フィラエ神殿で見つかった碑文と柱がそれにあたるが、ロゼッタ・ストーンのようにヒエログリフの碑文が比較的無傷で残されているわけではない上、この勅令の写しが発見されるはるか以前にロゼッタ・ストーンの言葉が解読されており、ウォリス・バッジをはじめとした後のエジプト研究者たちがこれらの碑文に取り組んだのも、ロゼッタストーンの失われた箇所に使われているに違いないヒエログリフの文字群をさらに詳しく明らかにするためだった。
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