再発見年と発見者についての異説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 01:58 UTC 版)
「糸魚川のヒスイ」の記事における「再発見年と発見者についての異説」の解説
金子善八郎(糸魚川市文化財保護審議会長)はヒスイの再発見年について、1935年(昭和10年)と1938年(昭和13年)の2説があることを指摘している。比較的古い文献は1935年(昭和10年)説をとっているが、河野義礼による1939年(昭和14年)の文献では1938年(昭和13年)とされている。河野の記述が存在するにもかかわらず、第二次世界大戦後はほとんどの文献で1935年(昭和10年)説を採用していた。 1939年(昭和14年)6月、河野は糸魚川病院の院長である小林総一郎(河野は小林の義兄にあたる)から、小滝川産の緑色の石を送られた。石と前後して、その鑑定を乞う手紙が小林から届いた。 河野が神津俶祐にその処置を尋ねてみたところ、神津自身が香港で購入していたミャンマー産のヒスイと比較を試みることになった。両方の石の薄片を作成した上で顕微鏡などで化学分析を試みたところ、緑色の石はまさしくヒスイ原石であった。 河野は神津から産状調査のための出張を命じられて、同年7月に糸魚川を訪問している。仙台からやってきた河野を出迎えたのは義弟の小林のみで、相馬は糸魚川駅近くに居住していながらも出迎えに行かず、彼と面会もしていなかった。そしてこのときの案内人は、発見者の伊藤ではなく西頚城郡根知村(現在の糸魚川市根知)の鉱山師、大町龍二が務めた。河野は地元で発電所に勤める人からの話を聞き、土倉沢よりやや下流で明星山の断崖下の小滝川の河原に大きなヒスイ原石の集積を見つけた。 河野は1939年(昭和14年)秋に調査と研究の成果をまとめ、学術雑誌『岩石礦物礦床学』に「本邦に於ける翡翠の新産出及び其化学性質」という論文を発表した。河野のヒスイ発見は日本国内では報じられず、わずかに論文発表の直後に考古学者の島田貞彦が旅順工科大学の地質学者である小倉勉から糸魚川でのヒスイ発見を教えられたのみであった。島田がこの件について短報を書いたのは、それから1年半を経過した『考古学雑誌』第31巻5号(1941年5月)であった。そして一般に報じられたのはさらに時間の経過した1943年(昭和18年)5月2日付の朝日新聞の紙面で、発見場所を「新潟県某渓谷」と記述し、小滝川の名も現地の地名も出てこない記事であった。 多数を占めていた1935年(昭和10年)再発見説は、1976年(昭和51年)の糸魚川市史第1巻の発行を境に、ごくわずかの例外を除いて再発見年の記述が1938年(昭和13年)に変更されていた。その契機は、糸魚川市史を監修し、実質的な執筆者でもある青木重孝の記述によるものである。青木がヒスイの再発見史を執筆するときにメインの資料として使ったのは、伊藤による「翡翠発見当時の話」という手書きの文書であった。 「翡翠発見当時の話」が執筆された時期について、竹之内耕(フォッサマグナミュージアム学芸員)と宮島は記述の内容を検討した。その時期は小滝川硬玉産地が天然記念物の指定を受けた1956年(昭和31年)の後で、糸魚川市史第1巻が発刊される1976年(昭和51年)以前と推定された。伊藤は1887年生まれのため、彼が69歳から89歳までの時期となる。ただし、「翡翠発見当時の話」についてはその記述内容に疑義を呈する意見がある。 金子は「翡翠発見当時の話」にヒスイ発見の年月日やそのときの様子がリアルに描かれ過ぎているため、かえって不自然であることを指摘した。そして再発見から20年以上経過してからの執筆であり、資料には使えないとした。その上で金子は、伊藤が相馬、鎌上、河野などの地元名士や学者などの名前をわざわざ使ってでたらめな記述をしたとは考えられないとして「真実と虚実が混在」していると推定した。 伊藤がヒスイ再発見の功労者として新潟県文化財保護連盟から表彰されたのは、1969年(昭和44年)、83歳のときであった。表彰の時期がここまで遅れた理由は、河野による1939年(昭和14年)の論文「本邦に於ける翡翠の新産出及び其化学性質」にみられる発見者の記述に起因していた。この文献で河野はヒスイの第一発見者を伊藤ではなく、大町龍二と記述した。この記述について、宮島は河野の捏造や記憶違いなどではなく、単に案内人を務めた大町をヒスイの発見者と誤認したものと考えるのが妥当としている。 発見年については、『国石 翡翠』(2018年)の編さん作業の過程で「1935年」(昭和10年)の可能性が高いことが判明した。根拠となったのは、益富壽之助による1961年の文献「故岡本要八郎先生と青ヒスイ」である。益富は1959年(昭和34年)7月と11月に糸魚川を訪問し、小滝川ヒスイ峡や青海川ヒスイ峡、電気化学工業青海工場や信越化学工業の小滝採石場などに立ち寄っていた。最初の訪問で、益富は長島乙吉から伊藤を紹介されていた。2回目の訪問で益富は伊藤の自宅に一泊した。宮島はこの訪問の際に、伊藤から河野の文献に見えるヒスイ発見者が事実とは異なることを聞いたのであろうと推定している。 益富の文献は、内容の重要性にもかかわらず長きにわたって埋もれていた。それを発見したのはフォッサマグナミュージアム学芸員の小河原孝彦で、『国石 翡翠』編さんの資料として『地学研究』第12巻第2・3号の複写を入手した際のことであった。
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