作曲から再発見までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 15:15 UTC 版)
「日本行進曲 (ヨーゼフ・シュトラウス)」の記事における「作曲から再発見までの経緯」の解説
1862年、江戸幕府によって派遣された文久遣欧使節がロシア帝国を訪問した。当時、ロシアではヨーゼフ・シュトラウスが兄ヨハン・シュトラウス2世の代理としてパヴロフスクでの仕事をしていた。日本からやってきた使節団を歓迎するために、ヨーゼフは東アジアの旋律をいくつか盛り込んだ『日本行進曲』を作曲した。 この曲の楽譜はサンクトペテルブルクのBüttner社によって1870年頃に出版された。楽譜の表紙には「作品番号124」とあるが、ヨーゼフ・シュトラウスの「作品番号124」は通常この曲ではなくワルツ『運命の子供』(Glückskinder)のことを指す(ヨーゼフ・シュトラウスの作品番号一覧を参照)。このような作品番号の重複は、『日本行進曲』を出版したBüttner社が独断で番号をつけたためか、もしくは誤植のためだと考えられる。 ロシア国内でのみ出版され、ウィーンでは出版されなかった。このため出回った楽譜がシュトラウス・ファミリーの作品群の中でも特に少なく、シュトラウス一族の研究家であるピーター・ケンプらが世界中を調査しても長らく楽譜を発見できず、曲名しか分からない謎の作品となっていた。しかし、2012年になってオーストリア国立図書館の「総合カタログ」にこの曲の蔵書記録が現れた。新規購入されたわけではなく、アントニー・ヴァン・ホーボーケンの遺品整理が進み、その成果が反映されたものであるという。
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